Xが人間を閉じ込める「固定化された世界」
これまでXやFacebook、noteなど様々なSNSを使っていた私ですが、昨年末、16年続けていたXをやめてしまいました。
自分の1日を客観的に眺めてみると、Xに費やしている時間が非常に多く、また自分が何か考えるきっかけの大半も、Xで目にすることだと気づいたのです。
ユクスキュルという生物学者が提唱した「環世界」を例に挙げましょう。目や耳を持たず、“匂い”に反応して哺乳類にしがみつくことが生きる全てであるマダニの世界には、「岩」や「木」などは存在しないという世界観です。認識できないものは存在していない、そしてこの「環世界」に身を置くのは人間も同様だと指摘します。
Xは、人間を一つの環世界の中に閉じ込めて、ぐるぐると循環させるのに非常によくできたプラットフォームなのではないかという気がしています。気づけば自分も、この固定化された世界の中で、Xで触れたものに「対応」して考える繰り返しになっていた。主導権がこちらになかったともいえるでしょうか。だからこそ、この環世界を一度壊して、本来自分は何からどんな影響を受け、どう思考を深めていくのか、確かめたいと思ったのです。
それが正解だったかがわかるのは、もう少し先のことでしょう。正直なところ、時事的な話題に疎くなった実感はあります。
しかし少なくとも、以前より本を3~4倍くらいのペースで読めるようになりました。いかにXに時間をとられていたかということを実感するとともに、数分、数時間ごとにXを開く習慣がなくなったことで、集中して一冊を読み切ることができる意義を感じています。
AIが「責任」を負う日は来ない
そんなSNSに対して、私の日常とは切り離せなくなっているのがAIです。
研究の切り口を探るためにClaudeなどのLLM(大規模言語モデル)を“壁打ち”としてよく使いますが、AIは私がこれまでに読んだ本などもすべて把握していますから、「次に読むべき本」などもかなり精度高く提案してくれます。あるいはスケジュール管理や事務作業のほとんどはAIエージェントに任せています。「5月中の平日で2時間空いている日を教えて」と尋ねて打ち合わせの日程を確保してもらったり、届いたメールについて「イエス」「ノー」だけを伝えたら返信文を自動でつくってくれたり、私がメールで「ありがとうございました」と送ると自動で請求書を発行してくれたり。
ただし、AIが代替するこうした一連のフローは、要所要所で私の“許可”がないと進まないようになっています。メールの自動化は“下書き保存”までで、請求書も目視で確認するまで送られることはありません。いくらAIによって業務の効率化が図られても、責任を負うのは私です。
一般のビジネスパーソンの方も、たとえば上司から頼まれた資料を作る際、AIの力を借りることもあるでしょう。しかし自分がその中身を理解していなければ、「これはどういう意味?」「この数字の根拠は?」と聞かれても、答えられなくなってしまいます。
結局、AIにできることが増えても、AIのアウトプットに対する「責任」を負うのは人間です。ゆえにそのクオリティをチェックし、判断するための知識や経験が必要であることに変わりはないのです。OpenAIもAnthropicも、AIに究極的な意味での自律性を持たせることはないでしょう。自分たちに責任が及ぶことはなんとしても回避したいはずですから。
AI時代にこそ必要な「欲」、その解像度を上げる「教養」
その一方で、少しでも気を抜いたら、AIに主導権を奪われかねない時代であるとも感じています。
私自身、朝起きたら「今日はこれをやってください」というAIエージェントの指示から1日が始まります。AIとの壁打ちで思考を広げ、AIが薦めてくれる本を読み、その学びをまたAIに伝え……。
“あえて”そのような使い方をしている意識があるので、まだ主導権は自分にあると思っています。
しかし私も油断したら、「気づかぬうちに振り回されていた」ということになりかねない危機感があります。私がXの世界に固定化されていたのと、ある意味で通じるところがあるかもしれません。
こうした時代だからこそ、人間側がどうしたいかという、「ビジョンをいかに描けるか」が問われてくるのではないでしょうか。いってしまえば、「欲」です。日々AIと向き合っているとよく「そもそもあなたは何をやりたいんですか」と問われ、ハッとさせられます。あらゆる行動の起点となる「欲」が定まっていないと、AIとのやりとりは局所的な対症療法に終始し、そのアウトプットもふわっとしたものになってしまう。それでは、本当にこちらが「使いこなしている」とは言い難い。
そしてこの「欲」の解像度を上げるものこそ、教養だというのが私の考えです。