丘のように積み上がる小麦の穀粒、市場に溢れるスイカや靴や自転車、仲のよい家族のように労働に勤しむ農民。名匠プイリエフによって1949年に撮られた『クバン・コサック』には、社会主義ソ連がたどりついた共同体の夢があますところなく描かれていた。コルホーズ(集団農場)の苦しい現実がどうあれ、プイリエフはソ連農村の暮らしを美しく演出しきった。この叙事詩を演じた俳優のなかには、かつてレーニンの葬儀で寒さに頬を真っ赤にしていたユーリー少年もいた。内務人民委員ベリヤお抱えのアンサンブルで経験を重ねた彼は、笑顔が魅力的なコサック村の青年をはつらつと演じている1。
『クバン・コサック』の虚構は、ソ連帝国がともかくも社会主義と呼ばれる新しい秩序にたどりついた、という現実を土台にしていた。帝国の創始者レーニンは、社会主義に確固たる実態を与える前に倒れた。膨大な人命の犠牲をもたらしつつも、新しい秩序を構築したのは別の人物である。ソ連帝国がどこか「家族」のような有機体的イメージをもっている以上、「構築」よりも「育成」という言葉のほうがふさわしいかもしれない。レーニンを引き継ぎ、帝国の育成者となった「悪党」、スターリンの物語を始めよう。
1. ジョージアの革命家
勤勉な少年
コーカサス山脈の麓に横たわるサカルトヴェロが、スターリンのふるさとである。これは現地名で、ロシア語ではグルジア、今日の国際的な呼称ではジョージアとなる。ジョージアには紀元前から文明が栄えたが、19世紀初頭に大半の地がロシア帝国に併合された2。スターリンの父ベサリオン(ロシア語でヴィサリオン)・ジュガシヴィリ(1850-1909)は農奴の息子で、ジョージアの中心都市チフリス(現トビリシ)で靴職人となり、東部の町ゴリで自分の靴屋をもつまでになった。ゴリには鉄道の駅があったので賑わいがあり、軍隊が駐屯していたので靴の注文も多かった。1872年に彼はケテヴァン・ゲラッゼという大きな目をもった17歳の娘と結婚した。彼女の両親も元は農奴であった。ベサリオンとケテヴァンはどちらもオセチア人のルーツをもつ可能性があるが、母語はジョージア語であった。彼らの間には2人の息子が生まれたが、いずれも幼少のうちに死んでしまった。1878年12月6日に生まれた待望の第三子イオセブ(ロシア語でヨシフ)が、将来のスターリンである3。
ベサリオンが酒で身を持ち崩し、夫婦仲は壊れてしまう。1884年頃に彼はチフリスに出奔し、残された妻とヨシフは住居を転々と変えるような暮らしを余儀なくされた。なお悪いことに、父の出奔と同じ頃にヨシフは天然痘にかかり、一命はとりとめたものの顔に痕が残った。さらにヨシフの左腕と左肩の成長にも障害が生じたが、事故によるのか遺伝的なものなのかは分からない。……