カルチャー

「若者と老人」の間にそびえる「バカの壁」は一次方程式で説明できる

2026年5月18日


<span>「若者と老人」の間にそびえる「バカの壁」は一次方程式で説明できる</span>
入力は五感、出力は運動(Gorodenkoff /shutterstock.com)

 イタズラ小僧と父親、イスラム原理主義者と米国、若者と老人は、なぜ互いに話が通じないのか。そこに「バカの壁」が立ちはだかっているからである――これは2003年に刊行され、現在までに460万部以上を売り上げたベストセラー『バカの壁』のカバーにある内容紹介の文章である。人間は進歩しないということか、ここにある文章は残念なことに2026年の今もなおそのまま通用する。当時はイラク戦争のことを指していたが、今ならば多くの人がイランとアメリカとの衝突を想起することだろう。この「バカの壁」について、養老氏は「まえがき」で次のように述べている。

「結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない」

 さらに、第一章(「バカの壁」とは何か)では、大学での出産に関するドキュメンタリー番組を学生に見せたところ、男子学生と女子学生とでは反応が異なったというエピソードをもとに「バカの壁」についての説明を試みている。男子は出産について実感を持ちたくない、だからドキュメンタリーを見ても「知っているようなことばかり」という反応を示した、一方で女子は「大変勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想を寄せた。

「つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の『バカの壁』です」(同書より)

 この「壁」の存在が、あらゆるディスコミュニケーションの根本にある、というのが養老氏が同書で説いていることだ。これを脳の仕組みから説明しているのが、第二章(「脳の中の係数」)である。単純な一次方程式をもとに、人間の思考を鮮やかに解剖してみせた、その冒頭をご紹介したい。

(新潮新書『バカの壁』の内容を一部抜粋し、再構成しています)

脳内の一次方程式

 知りたくないことに耳をかさない人間に話が通じないということは、日常でよく目にすることです。これをそのまま広げていった先に、戦争、テロ、民族間・宗教間の紛争があります。例えばイスラム原理主義者とアメリカの対立というのも、規模こそ大きいものの、まったく同じ延長線上にあると考えていい。

 これを脳の面から説明してみましょう。脳への入力、出力という面からです。言うまでもなく、入力は情報が脳に入ってくることで、出力は、その情報に対しての反応。入力は五感で、出力というのは最終的には意識的な出力、非常に具体的に言うと運動のことです。

 運動といっても、別にスポーツのことを指しているわけではありません。話すのも運動だし、書くのも運動だし、手招きも表情も、全部運動になる。さらに言えば、入力された情報について頭の中で考えを巡らせることも入出力のひとつです。この場合、出力は脳内の運動となっていると考えればよい。

 コミュニケーションという形を取る場合は、出力は何らかの運動表現になる。

 では、五感から入力して運動系から出力する間、脳は何をしているか。入力された情報を脳の中で回して動かしているわけです。

 この入力をx、出力をyとします。すると、y=axという一次方程式のモデルが考えられます。何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数をかけて出てきた結果、反応がyというモデルです。

 このaという係数は何かというと、これはいわば「現実の重み」とでも呼べばよいのでしょうか。人によって、またその入力によって非常に違っている。通常は、何か入力xがあれば、当然、人間は何らかの反応をする。つまりyが存在するのだから、aもゼロではない、ということになります。

 ところが、非常に特殊なケースとしてa=ゼロということがあります。この場合は、入力は何を入れても出力はない。出力がないということは、行動に影響しないということです。

 行動に影響しない入力はその人にとっては現実ではない、ということになる。つまり、男子に「出産ビデオ」が何の感興ももたらさなかったのは、その入力に対しての係数aゼロ(または限りなくゼロに近い値)だったからです。彼らにとっては、現実の話ではなかった。となれば、感想なんか持てるはずもありません。

 同様に、イスラエルについてアラブ人が何と言おうと、さらには世界がいかに批判しようと、その情報に対しては、イスラエル人にとって係数ゼロがかかっている。だから、彼らの行動に影響しない。

 逆に、イスラエルからの主張に対しては、今度はアラブ側が係数をゼロにしている。聞いているようで、聞いてなんかいないわけです。これをもう少し別な言い方をすると、係数ゼロの側にとっては、そんなものは現実じゃない、とこういう話になってくる。

 身近な別の例を挙げてみましょう。歩いていて、足元に虫が這っていれば、私だったら立ち止まるけれど、興味が無い人は完全に無視してしまう。目にも止まらない。これは、虫という情報に対しての方程式の係数が、その人にとってはゼロだから。

 しかし、百円玉が落ちていると、その人は立ち止まるかもしれない。馬券が落ちていたら、「ひょっとして当たりかも」と期待して立ち止まり、拾うかもしれない。馬券については、私は止まらない。

 これは、入力に出力が全然影響を受けない場合と、受ける場合がきれいに分かれているということになる。人によってその現実が違うというのは、実はaだったらaがプラスかマイナスか、あるいはa=ゼロかの違いなのです。

男女の好き嫌いも係数次第

 他にも身近なa=ゼロのケースとしては、おやじの説教を全然聞かない子供、なんて場合があります。「部屋を片付けなさい」だの「宿題をちゃんとやりなさい」だの何だのとさんざん言うと、その時だけは子供もウンウンなんて相槌(あいづち)を打っているけれど、実は全然聞いていない。だから次の日、同じように悪いことをしている。

 彼に対する説教の中身は、a=ゼロになっているから、いくら入力しても行動に影響がない。おやじが怒っていたっていうのだけが入力になっていて、怒ったおやじの顔を見ると逃げたりしている。そちらの方だけは、きちんと「出力」が出来ているわけです。子供にとっての現実は「おやじの怒った顔」だけで、「おやじの説教」は現実ではない。

 では、a=ゼロの逆はというと、a=無限大になります。このケースの代表例が原理主義というやつです。

 この場合は、ある情報、信条がその人にとって絶対のものになる。絶対的な現実となる。つまり、それに関することはその人の行動を絶対的に支配することになります。

 尊師が言ったこと、アラーの神の言葉、聖書に書いてあることが全てを支配する、というのは、その人にとってaが限りなく大きい、ということになります。

 この一次方程式で、行動の大抵のことは説明できる。ここまで述べてきたことは、「わかる」ということについてでしたが、感情についても同様の説明ができます。

 簡単に言えば、aがゼロより大きいという場合を好きとすると、aがゼロより小さいとき、マイナスになっているから嫌い。誰かを見た時、すなわちそういう視覚情報xが入力されて、aがプラスならば、y=行動はプラスになる。

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