カルチャー

第1回 石原慎太郎に見る「真のエゴイズム」の価値

2026年5月19日


<span>第1回 石原慎太郎に見る「真のエゴイズム」の価値</span>
「真のエゴイズム」を持っていた石原慎太郎

 政治的正しさという名の強風が吹き続ける中、タブー視される存在は増える一方である。しかし、彼らを「いなかったこと」にしていいのか。その言論は「なかったこと」にすればいいのだろうか。
 ともすれば語ることすら忌み嫌われかねない「禁じられた教養」の現代的意味を批評家・物江潤氏が探る本連載、第1回目の対象は「石原慎太郎」である。傲岸不遜といったイメージが強く、右派的な言動も目立ったことから、特に左派からのアレルギー反応が強かった石原だが、その「エゴイズム」の意味を軽視すべきではないと説く。(文中敬称略)

石原慎太郎とエゴイズム

 エゴイズムという言葉を辞書で引けば、例文に彼が登場するようにさえ思えてくる。その豪放磊落なキャラクターと、歯に衣着せぬ発言で世間を騒がせ続けた石原慎太郎は、強い自我(エゴ)を最期まで隠さずに死んでいった。

 しかし、石原が宿していたのは単なるエゴイズムではない。いわば石原流の「真のエゴイズム」である。モラル、情報リテラシー、建設的な対話など、現代人に欠けているとされるものは多々あるが、実のところ本当に必要なのは、この「真のエゴイズム」であるように思えてならない。

 一般的にエゴイズムは、現代社会においては忌避されがちである。組織では従順さが求められる以上、自我を前面に押し出す個人は、しばしば扱いにくい存在として周縁に追いやられるからだ。文字通り、日本社会においてエゴイズムは禁じられた存在といってよい。

 以下、『酒盃と真剣―石原慎太郎対話集』(参玄社)にある、作家・三島由紀夫および劇作家・山崎正和との対話を紐解きながら、現代人が学ぶべき「真のエゴイズム」について考えていきたい。

ぼくのために政治をしました

 誰のために政治をするのかと政治家に問えば、その返答は相場が決まっている。国民のため、国家のため、助けを必要としている人のためといったように、判を押したような答えが返ってくる。

 しかし、石原慎太郎は一味も二味も違う。先の質問に対し、テレビ出演時に「ぼくのためにしました」と答えたうえに、「エゴイズムですか」という再質問には「そのとおりエゴイズムです」と悪びれずに返答するのである。その後、質問をした主婦による怒りの投書が新聞に取り上げられるが、それが現代でいうところの炎上を引き起こしたであろうことは想像に難くない。

 ところが、ここでのエゴイズムとは、そう単純なものではないようだ。この逸話を披露してから間もなく、三島は石原に対し「少なくとも君が政治をやるというのもサクリファイスだよ」と向けたところ「そりゃそうだな。自分で言うことじゃないけれど」と首肯しているからだ。

 果たして、この自己犠牲(サクリファイス)を伴うエゴイズムとは、一体何なのだろうか。普通に考えれば、これは矛盾しているようにしか思えない。が、両者は間違いなく併存している。

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