日本のアカデミアには「アーギュメント」がない
まず定義として学者が書く論文とは、ある主張を提示して、その正しさを論証する文章のことをいいます。そしてその主張とは、アーギュメントでなければならない。アーギュメントは英語圏で普通に使われる言葉ですが、論証を必要とする飛躍した主張のことです。学者は誰もが納得する自明のことをあえて述べる必要はありません。むしろ、その主張を聞いた人に本当にそうなのかという問いを生じさせるような非自明な主張が、アーギュメントです。
論文ではその飛躍した主張をファクトとロジックによって埋めていきます。その飛躍のジャンプが高ければ高いほど、アーギュメントの価値は大きくなります。ただし、やみくもに飛躍のジャンプが高ければよいというものではなく、それを最終的には論証して納得させられないと意味がない。このように、飛躍のジャンプの高さとアーギュメントの価値はトレードオフの関係になっているわけです。
日本の人文系アカデミアにおける論文には、アーギュメントが欠けています。研究者はトピックやファクトを示すこと自体を学問だというように勘違いしている。もちろん、中にはアーギュメントがあるものも存在しますが、その書き手自身が、それをアーギュメントとして明確に意識しているケースは必ずしも多くないだろうと思います。このような日本のアカデミアにおける論文観・研究観を、根本から問い直したのが拙著です。
例えば、アンパンマンをテーマに研究するとして、「初期のアンパンマンは、長身・丸顔のおじさんだった」と言うのは、単なるファクトでありアーギュメントではありません。それに対して、「アンパンマンでは、男性中心的な物語が女性キャラクターを排除している」といった主張であれば、その主張は論証なしには納得してもらえないでしょう。これがファクトとロジックによる埋め合わせで、十分に論証されたとき、はじめてアンパンマン論としての学術的価値を持つことになるのです。世間から人文学の研究には価値がないと言われることがありますが、その背景にはこうしたアーギュメントの不在がある。主張を通じて学問の意義を説得的に示すという意識の欠如が、問題の本質だと考えています。
アーギュメントを構築するうえで重要なのは、「知的謙虚さ」を持つことです。知的謙虚さとは、自分がすぐに思いつくようなことは、他者もすでに気付いているはずだと考える姿勢を指します。学者は自明なことを言う必要はありませんので、自明性と非自明性のエッジがどこにあるかを、自己批判を通じて見極めねばならない。そうして見出した非自明なアーギュメントについて、その新しい主張によって自分は人々の思考をそちらの方向に導いていいのか、そう自問することも重要です。