カルチャー

『赤毛のアン』翻訳者が振り返る「職業人・久米宏さん」の「言葉」​

2026年7月14日


<span>『赤毛のアン』翻訳者が振り返る「職業人・久米宏さん」の「言葉」​</span>
久米宏さん(2005年)

2026年の元日に81歳で亡くなったアナウンサーの久米宏さんは、存命であれば2026年7月14日に82歳の誕生日を迎えるはずだった。かつて久米さん自身が行った「ニュースステーション」の選考試験に合格し、番組の立ち上げ期からキャスター・リポーターとして出演した作家・翻訳家の松本侑子さんが、久米さんに見た「職業人」としての“矜持”を振り返る。

「運命を一緒にする人は、僕が自分で選びます」

 久米さんとはじめてお目にかかったのは、1985年の7月でした。私は大学四年生で、就職試験の一環として「ニュースステーション」出演者の一般公募に応募したのです。書類審査では一般的な経歴審査に加えて、「テレビ朝日の報道番組について思うこと」という作文の審査もありました。後々、局の方から「あの作文が面白かったから書類審査に合格した」と言われました。

 選考は7次試験ぐらいまでありました。最終面接では「一人でこの扉の向こうに入ってください」と言われましたので、テレビ朝日の社長さんか役員の面接かしらと思ってドアを開けて入ると、そこには久米さんがお一人でおられたのです。呆然として、その場で立ちつくしてしまいました。

 当時は久米さんが司会をされることは発表前だったのです。ここはTBSじゃなくてテレビ朝日なのに、どうして久米宏さんが……。何も言えずに、目を丸くしていました。
 
 すると久米さんは、「司会をさせていただく久米宏と申します」と丁寧におっしゃいました。

 久米さんは、黒柳徹子さんと司会をされた「ザ・ベストテン」や、「ぴったしカン・カン」などバラエティーのイメージだったので、またびっくりしました。
 
 私が驚いて立ったままなので、久米さんは「びっくりしたよね。僕は、アナウンサー人生をかけて新しい報道番組を始めます。その運命を一緒にする人は、僕が自分で選びます」とおっしゃったのです。その時、「この人の人生をかけた挑戦に、私も参加させていただくのだ」と、背筋の伸びる思いでした。

 採用が決定してからは、夏に発声練習や都内で現場リポートの練習、スタジオ収録の練習などを積み重ねて、私は放送初日の1985年10月7日から1988年3月31日までの2年半、夕方の16時から深夜1時まで、約600日を毎日、久米さんとご一緒させていただきました。

  取材リポーターとしては、毎朝7時に会社に行き、都内や関東各地の取材をして、夕方帰社、夜は生放送に天気予報のキャスターとして出演。帰宅すると深夜1時、また翌朝は7時出社です。週末は九州や北海道など遠方の取材をしました。

 平日の夕方、私は都内の取材から帰り、当時は赤坂溜池のアークヒルズにあったテレビ朝日の報道部に戻ります。久米さんは大きなニュースがない限りは16時ぐらいに来られて、スタッフルームでタバコを吸いながら夕刊各紙を読んでおられました。

 19時から、全出演者とスタッフの最終打ち合わせが会議室であり、その後、社食で夕食をとり、22時から生放送。最初の頃は、たしか23時15分ぐらいまで番組がありました。

繰り返し話していた「マスメディアの役割」

 久米さんがおっしゃっていた言葉をよく憶えています。

「マスメディアの役割は、国家の三権(立法、行政、司法)を監視して、ご覧になっている皆さんに正しい情報を伝えること。一般の人は記者クラブに入ることができないのだから、それを伝えることで自由な社会と暮らしを守ること」

 私は午後16時ぐらいに取材から戻ると、VTRを編集してもらい、その動画に合わせたナレーション原稿を、毎日、テレビ朝日の原稿用紙に書いて、デスクに確認してもらっていました。

 その時久米さんに言われたのは、「書き言葉はやめてください」ということです。新聞や雑誌で使う書き言葉ではなく、自然な「話し言葉」でナレーションを書くよう言われました。

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