カルチャー

【日本公演「60周年」記念対談】髙嶋弘之×新田和長 「ビートルズ」熱狂の舞台裏

2026年7月3日


<span>【日本公演「60周年」記念対談】髙嶋弘之×新田和長 「ビートルズ」熱狂の舞台裏</span>
高嶋弘之氏(手前)と新田和長氏(奥)

1966年6月29日未明に初来日したビートルズは103時間の滞在で5公演をこなした。日本での初代ディレクターの髙嶋弘之氏と、「5人目のビートルズ」ジョージ・マーティンと親交を続けた新田和長氏が熱狂の舞台裏を語る。

1966年6月29日、ビートルズを乗せた飛行機が羽田空港に着陸

〈ビートルズを乗せたアンカレッジ発JAL412便が羽田空港のC滑走路に着陸したのは6月29日午前3時40分のことだった。メンバー4人はタラップ横に停めてあったキャデラックに乗り込み、パトカーの先導で永田町の東京ヒルトンホテルへ直行する。

 ホテルの地下駐車場に到着した一行は従業員専用のエレベーターで貸切状態の10階へ。午後3時からホテル地下2階「真珠の間」で記者会見を終えた彼らは10階のスイートルームに戻り、午後6時過ぎに初めてのゲストを迎える。〉

髙嶋 会社(東芝音楽工業、後の東芝EMI)からヒルトンホテルまでの道中のことは何も覚えていないから、緊張していたんだね。ホテルに着いて加山雄三さんと5、6人乗ったら一杯っていう業務用エレベーターで10階に行きました。

〈加山は東芝音工所属で、65年に「君といつまでも」が爆発的にヒットしていた。面会の段取りは当日の午後に成立したという。〉

髙嶋 加山さんを先導する形で10階の長い廊下を歩いて部屋に入った。一番手前にリンゴ・スター、そしてジョージ・ハリスン、ポール・マッカートニーと握手して……あれ、ジョン・レノンがいない、と。

新田 いなかったんですか?

髙嶋 そう。でも、握手しているときに、後ろから忍び足で人が近づいてくる気配を感じてね。パッと振り向いたらジョンが加山さんの後ろから羽交い締めするように抱きついて笑いながら持ち上げたんだ。加山さんは訳がわからず「うわー」って。

新田 え?

髙嶋 ジョンは日本のスターが来ると聞いて、わざとそうしたのかな。ポールがワーッと笑うと、ジョンもハッハッハって笑って、硬かった空気が一気にほぐれた。

〈部屋にはレコードプレイヤーがあり、加山は『ハワイの休日』を、ビートルズは発売前のLP(『リボルバー』)から命名前の曲を披露した。ビートルズがライブは控えレコーディングスタジオで曲を作り込むスタイルになっていくのはこの頃だ。お互いの曲を鑑賞したあと、「スキヤキが食べたい」というビートルズの希望でルームサービスが運び込まれ、加山が食べ方を教えることになる。ホテルの外では押しかけたファンがわずかな変化さえ見逃すまいと目を凝らしていた。〉

髙嶋 会った翌日から昼夜の5公演です。自分が座った席まで覚えているけど、言いたいことがある。みんな静かに聴いていたっていうけど、嘘つけ、ですよ。「立ち上がる人がいたら即公演中止」というアナウンスがあったから立ち上がる人こそいなかったけど、彼らの歌声が聞こえないくらいの歓声だった。

もともとは「プリーズ・プリーズ・ミー」で日本デビューするはずだった

新田 ビートルズのレコードが日本で初めて発売されたのは64年2月です。しばらくは欧米での人気が先行していたのですが、武道館公演が行われる66年6月に向けて日本でも人気がぐんぐん高まっていった。初代ディレクターの“作戦”をお聞かせください。

髙嶋 62年、EMIから届いた「ラヴ・ミー・ドゥー」のレコードは聴いていたと思うのですが、当時は全然ピンとこなかった。聴いたかどうかも定かでないほど。

 それが63年1月に発売された2作目の「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴いて、「これからの音楽だ!」とピンときた。僕は入社4年目でした。

新田 でも、日本で最初に発売されたのは5作目のシングル「抱きしめたい(原題:I Want To Hold Your Hand)」でしたよね。

髙嶋 事情があるんです。「抱きしめたい」は63年11月にシングルで発売されて、発売日にお膝元の全英シングルチャートで1位になります。

 一方、同作のアメリカでの発売権を持つことになるのはキャピトル・レコードですが、「プリーズ・プリーズ・ミー」はアメリカでは当初あまり売れなかったのでキャピトルも様子見の構えでした。その後、ラジオなどで取り上げられて一気に人気が高まると、キャピトルはあわててレコード販売の独占契約を結び、新曲のリリースを急ぎます。

新田 「抱きしめたい」はイギリスで63年11月29日、アメリカで12月26日、日本では64年2月5日に発売されました。

髙嶋 もともとは「プリーズ・プリーズ・ミー」を日本でのお披露目にしよう、63年のうちには出そう、と思っていたんです。が、暮れが近くなると国内の話題はどうしてもレコード大賞がらみになるから、来年にもっていこうと調整していたところへ、キャピトルが「抱きしめたい」で年内にいくという話が飛び込んできた。当時、欧米と日本のヒット曲の“時差”は2カ月ほどでした。なら、あちらが「抱きしめたい」で盛り上がっているときに、日本にその曲がないのはまずい。だから発売の順番を変えたんです。

〈急な変更だったので広告を差し替えられず、「日本発売第一弾! プリーズ・プリーズ・ミー」という文字が出回ってしまう。だが、髙嶋の読みは当たった。「抱きしめたい」は64年2月1日に初の全米1位を獲得、以後7週連続でトップの座を守ることになる。〉

髙嶋 当時、音楽のヒットを左右するのはラジオでした。海外でいかに盛り上がっていても、それだけじゃ日本のラジオは曲を流してくれない。だったらどうするか。「感度の高い日本の若者はすでにビートルズに熱狂している」という状況をつくって、それをメディアが追いかけるようにしようと思った。

〈ここから早稲田大学で演劇を専攻した髙嶋の“演出”が始まる。〉

「ビートルズ・コンテスト」――日本独自の“ビートルズ旋風”の仕掛け

新田 火がついてからのビートルズ人気はすごかったけれど、火がつくまでが大変だったと思います。

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