隋と煬帝の蹉跌のはじまりは、高句麗遠征だった。遠征を三たびくりかえしたとは、いずれも成功しなかったという意味であり、第二次の遠征中、重臣の楊玄感が叛旗を翻したのを皮切りに、各地で反乱が発生した。また煬帝が雁門で突厥の騎兵に包囲された事件も、第三次の遠征軍派遣後に起こっている。
大乱
こうした内憂外患は、やがて中原の大乱に発展し、隋そのものの滅亡にいたった。もちろん煬帝の政治手腕に疑問符のつくことはまちがいない。たとえば李世民も応じた、突厥に対抗する援軍召募で、あらかじめ約した賞賜を反故にして軍隊の信頼を失ったのは、大きな痛手である。財政窮乏の折柄、費えを惜しんだらしい。いかにも自身の感情に正直な決断ではある。
兵役に動員された将卒が、各地で蜂起して群雄割拠の情況になると、煬帝はなすすべもなかった。隋に対する反感が満ちている関中には、もはやもどれないし、せっかく造営して腰を据えていた東都洛陽も、反乱に近すぎる。……