万暦は太平の御代、海外諸国は恭順、国内地方は平穏、家々人々も充足していた。もっとも、治に居て乱を忘れず、のぼりつめれば落ちるのみ、という。そうした警戒はどうやら緩みきってしまい、賢明な人士を遠ざけ、宦官・宮女にばかり親しみ、後宮への請託に進物の贈与、いつしか物欲が募って、話題になるのは、どこに金づるがあるか、ばかり。かくて万暦24年、臣下の主謀・建策によって、鉱税の騒擾がはじまった。当時はまさしく土崩瓦解、民間も政府もバラバラ、亡びなかったのが幸運とさえいえる。それでも宮中深くに引きこもり、上奏が来ても応答なし、慣習として根づいてしまい、おいそれとは改まらなかった。よくぞ時の礼部侍郎(文部次官)は、「陛下は国を豊かにしようとなさっただけで、民を苦しめるおつもりではなかった。ところが有象無象の群臣は、民を搾取しなくては己の私腹を肥やせない、と思いこんでいる」と上奏したものである。(『明史紀事本末』巻六五)
「万暦」は年号、その「24年」とは西暦の1596年なので、16世紀の終わりの中国。いわゆる「鉱税」とは、史上「鉱税の禍」と呼び慣わす出来事である。おそらく一般の日本人はほとんど誰も知らない、しかし中国史上・明代に屈指の、悪名高い事件ではあった。
「鉱税」といっても、鉱山にかける税金ではない。「鉱」「税」それぞれ一字ずつで「鉱山」と「商税」を指す。それで起こった災禍・騒擾のことであった。
鉱山とは銀のそれ、当時事実上のマネーだった銀を採掘、獲得しようというわけである。商税は読んで字のごとく、商業に従事する商人から、やはり銀で徴収する税金だった。こうした銀のとりたてを、政府公式の制度・命令・手続きではなく、天子が私意で、自分の召使いの宦官に命じてやらせたところに問題がある。……