(前回「第1回 レーニン 帝国の創始者(前編)」はこちら)
2.ロシア革命から内戦へ
1917年
世界大戦の重圧はロシア帝国を軋ませた。兵士輸送の負担が運輸を疲弊させ、広大な帝国の経済的一体性を弱めた。これが都市部の食糧供給に悪影響を与え、住民の不満を高めた。1917年2月末、ペトログラード(開戦直後にドイツ風のペテルブルグから改称した)で労働者の街頭運動が起こると、守備隊兵士も合流して革命となった。カデット主体の臨時政府が成立し、ロマノフ朝は消滅した。エスエルとメンシェヴィキは1905年の経験にならって各都市にソヴィエトをつくり、労働者と兵士の組織化に努めた。民主的な講和の早期実現に向けて臨時政府に圧力をかけるというのが、エスエル・メンシェヴィキの方針であった1。
二月革命の報を受けたレーニンは、一刻も早い帰国を望んだ。駐ベルン・ドイツ公使がこれに応えた。ロシアの敗北を呼びかけているレーニンに、ドイツ外務省は1915年から注目してきた。こうしてレーニンはクループスカヤ、ジノヴィエフ、アルマンドなどと一緒に3月27日出発した。ドイツ国境で列車を乗り換えてからは参謀本部次長ルーデンドルフ直属の将校などが随行した。「封印列車」というが、フランクフルトで接続便に乗り遅れるなどしているので、文字通り封印されていたわけではない2。4月3日にフィンランド経由でペトログラードにたどりついたレーニンは「四月テーゼ」を発表し、臨時政府打倒と社会主義革命の実現を提唱した。ボリシェヴィキも含めて社会主義者はみな、遅れたロシアで社会主義革命を成し遂げることはできないと考えていたから「四月テーゼ」に困惑した。だが、レーニンは徐々に賛同者を増やしていった。
ボリシェヴィキの間に賛同者が増えたのは、労働者と兵士の間で戦争の即時停止を求める声が高まっていったことと連動していた。臨時政府は5月にはエスエル・メンシェヴィキが参加して連立となるが、同じ連合国の側で戦っていた英仏の意向を無視して単独講和に踏み切ることはできなかった。7月初頭には首都の兵士が武装デモを敢行して、反乱の一歩手前までいった。レーニンは逡巡の後に彼らを支持した。臨時政府はデモの鎮圧に成功し、ボリシェヴィキは半ば非合法化され、レーニンはジノヴィエフとともに地下に潜伏した。首相は無党派自由主義者のリヴォフ公から、シンビルスクの校長の息子であるエスエルのケレンスキーにかわった。ボリシェヴィキの評判を落とすために、レーニンはドイツから金をもらったとの宣伝が行なわれた。……