はじめに
福沢諭吉は1882年の『時事新報』で西洋列強がアジアに迫る危機を「火の蔓延するが如し」1と表現し、「隣家」である朝鮮が「焼亡」してしまえば日本まで「類焼」する恐れがあると論じていた。朝鮮王朝は長期にわたる政治腐敗や社会の乱れによって破綻の危機にあり、そこに西洋が介入して日本に火の粉が飛んでくることを恐れていたのである。
そのように日本の国防において朝鮮半島がいかに重要であるかを認識していたのは福沢だけではなかった。山県有朋は朝鮮半島を日本の「主権線」(国土)と密接にかかわる「利益線」に位置づけ、日本の安全のためには「利益線」を保護する必要があると第一回帝国議会の施政方針演説で訴えていた。それゆえ、日清戦争時に朝鮮で開化派政権が発足すると、日本はこれに干渉して近代化を図り、行政機構を改編して宮中事務と国政事務を分離するなどしている(甲午改革)。この改革は露館播遷で一時後退するが、日露戦争後の1905年に伊藤博文が大韓帝国(以下、韓国)の初代統監に就任すると、再び宮中や財政などの諸改革に取りかかった。
しかし、そうした近代化改革は「専制政治」2にこだわる皇帝の高宗からすれば既得権益の喪失を意味し、許し難いことであった。そこで高宗は、1907年にオランダのデン・ハーグで開催された万国平和会議に信任状を持たせた密使を派遣して第二次日韓協約(韓国保護条約)の不当性などを国際社会に訴えようとした。「ハーグ密使事件」の名で知られるこの有名な事件は山川出版社が発行する『詳説日本史』にも次のように書かれている。
これに対し韓国皇帝高宗は、1907(明治40)年にオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に密使を送って抗議したが、列国に無視された(ハーグ密使事件)。日本は、この事件をきっかけに高宗を退位させ、ついで第3次日韓協約を結んで韓国の内政権をもその手におさめ、さらに韓国軍を解散させた。〔後略〕3
日本史の教科書には珍しく、比較的多くの紙幅を割いて朝鮮半島のことが記述されている段落である。だが、ここには典拠のわからない不可解な一文が含まれている。それは、「日本は、この事件をきっかけに高宗を退位させ」の部分である4。ハーグ密使事件の直後に高宗が皇位から退いたことは間違いないが、それを行った主体が日本だったことを示す一次史料を筆者は寡聞にして知らない。もしこの一文が信頼できる史料にもとづいて書かれていないならば、高等学校の歴史教育において実証性が担保されてないということになってしまう。
そこで、まず本稿の前編では当事者の史料をもとにハーグ密使事件から高宗の退位に至る経緯を整理する。そのうえで、後編では『詳説日本史』の一文がいつから何を典拠にして書かれるようになったのかを調査し、その史料的裏づけを検証する。
1.当事者の史料からみた高宗の退位
ハーグ密使事件から高宗の退位に至る経緯を記した当事者の史料として、『日本外交文書』『一堂紀事』『日韓合邦秘史』がある。『日本外交文書』は、外務省が日本の外交に関する基本的史料を提供する目的で編纂した公刊史料集である。第40巻第1冊にハーグ密使事件後の伊藤統監と日本政府関係者の電報が数多く収録されている。『一堂紀事』は、李完用の甥で秘書の金明秀が李完用の一周忌を記念するために関係文書を編纂して1927年に上梓した伝記である。李完用は政府首脳としてハーグ密使事件後の難局に対応しており、韓国側の視点から高宗の退位を把握するうえで欠かせない史料といえる。『日韓合邦秘史』は、黒龍会の葛生能久が同時代の記録や証言をもとに著した書籍である。黒龍会の内田良平(統監府嘱託)と連携して高宗の退位を推進した一進会の宋秉畯農商工部大臣らの言動が詳細に記録されている。
Ⅰ『日本外交文書』
まずは伊藤統監や日本政府関係者の視点からみた高宗の退位である。伊藤は7月7日に西園寺公望首相に長文の電報を送り、ハーグ密使事件後の韓国の動向を報告している。これによると、事件発覚の直後に伊藤は李完用首相を介して高宗に、今回の行為は日韓協約に違反しているので、日本は韓国に対して宣戦の権利があると告げている。対する高宗は、自分は関与していないと弁明するが、伊藤は密使が委任状の所持を公言していることに触れ、「最早虚言を弄して取消すべきに非ず」5と咎めた。……