「戦略的互恵関係」の失敗は明らか
――阿南先生は、2017年夏に出版しサントリー学芸賞を受賞した『中国はなぜ軍拡を続けるのか』(新潮選書)で、日本には「対中関係のオーバーホールが必要である」と主張していました。改めて真意を教えてください。
日中関係の基礎となってきた戦略的互恵関係とは、「経済的な相互依存関係を守るために、尖閣問題や歴史問題で過度な対立に陥るのは避けよう」という主旨の戦略です。それは、江沢民・小泉純一郎政権の時に起きた靖国参拝問題や尖閣問題での激しい対立から脱却しようという、日中両国の共同外交指針でした。
ところが、2010年の尖閣沖衝突事件と2012年の尖閣国有化をめぐって、中国は経済的な相互依存関係を逆手に取って日本に圧力をかけました。この時点で戦略的互恵の前提は崩れたのです。オーバーホールが必要だというのは、言い換えれば、「戦略的互恵関係の時代は終わった」ということです。
アメリカでも第一次トランプ政権時に、そうした認識の転換が起こりました。経済的な繋がりは中国を民主化させないし、中国はアメリカのパートナーにもならない。「経済的な交流を続ければ、やがて中国は民主化し国際協調路線に向かう」という前提に立った、いわゆる「関与(engagement)」政策は失敗したから、これからは競争だと。安全保障面でも経済面でも、中国の優位性確立を阻止する方向に明確な方針転換がなされました。
2017年12月、アメリカが新たな国家安全保障戦略(NSS) を発表して、1990年代から続く対中政策を根本的に見直しました。日本にとっての唯一の同盟国であり、安全保障で全面的に依存しているアメリカが、まず対中政策のオーバーホールを始めたわけです。
一方で日本側の作業は進まず、しばらくアメリカと温度差がある状況が続きました。日本がオーバーホールに着手する姿勢は、ようやく2022年の国家安全保障戦略で確認できました。「戦略的互恵関係」という文言が削除され、代わりに中国は日本にとって「最大の戦略的な挑戦」「深刻な懸念事項」であるとされた。アメリカに遅れること5年目で、ようやくアメリカと同じ土俵に立ったわけですが、そこからまたどんでん返しが起こって今に至っています。
中国側でも習近平政権の成立後、対日関係において戦略的互恵関係という言葉はほとんど使わなくなっていました。ところが、日本が新たなNSSを発表した翌23年から、一部では王毅外相が動いたと言われますが、日米の足並みが揃うのを避けようと「戦略的互恵関係が大事だ」と再び言い始めたのです。それに日本側も呼応して、当時の岸田文雄首相と上川陽子外相、続いて政権を執った石破茂首相と岩屋毅外相などが、戦略的互恵関係という言葉を使い出した。
これは中国から見れば、日米離間外交が功を奏したことを意味します。アメリカは「関与」政策から離れたのに、日本は日本版「関与」政策とも言うべき戦略的互恵関係に固執している。そういう国際政治上の局面を創出することに中国側が成功してしまったのです。したがって、対中政策のオーバーホールの現状は、良いところまで行ったけど結局は達成できてない、ということになります。
その結果が今まさに起きていることで、何かにつけて日本に経済制裁を科し、観光客も止める、果ては文化事業まで止めるという、およそ互恵に反する中国の対日政策です。日本政府が現実を直視せず、現状の深刻さを認識していなかった証左と言わざるを得ません。
戦略的互恵関係では、感染症についても「戦略的に有効な協力を展開」することがうたわれておりました。ところが、中国で新型コロナウイルス問題が発生すると、習近平政権は情報隠蔽に走り、結果的に14万人とも言われる日本人が亡くなりました。後遺症を患ったり、仕事を失ったり、学校で友達と十分に交流できないまま卒業した人がたくさんいます。習近平の個人独裁が日本社会に何をもたらすかを象徴する事例です。経済的な利益のみならず、日本人の生命すら犠牲になっている。戦略的互恵関係が失敗した政策であることは、すでに明らかです。
「トランプにハシゴを外される」と主張する人々の心理
日本が戦略的互恵関係に固執した原因は複合的ですが、一つには、あまりにも多くの日本企業が中国に依存していたことが挙げられます。ただし、日本製鉄などこれまで長らく中国に関わってきた日本企業の一部が、すでに撤退を始めています。
高市早苗首相のいわゆる「台湾有事は存立危機事態」発言で、中国がレアアースを止めるという話が出てきて、中国からの撤退やベトナムなどへの工場移転を進める企業がさらに増えました。中国のように政経不可分、つまり政治と経済を分けて考えない原則を持っている国の場合、外交問題で対立した時には、経済も自国の立場を有利にするための手段となる。
欧米の企業も中国と付き合っているじゃないか、という言い分もあるでしょう。ただ、欧米諸国は、日本と異なり、「領土を取りに行くぞ」と宣言されて実際に軍事的な圧力を受けている状況には直面していません。
日本側が譲歩すればうまくいくかのような希望的観測を持っている人がいまだに多いのですが、『中国はなぜ~』では、中国のガバナンスの構造が変わらない限りうまくいかないということを論証しました。少なくとも習体制が続く間、そうした希望的観測が成立する余地は極めて低い。
中国がこれからも成長する有望なマーケットであり続けるという幻想は、中国研究界ではすでに過去のものです。経済成長は頭打ちになって、中国国内はどんどん不安定化しています。その不満のはけ口が暴力事件などに表れていますが、深圳では日本人の小学生が殺されました。日本人が巻き込まれる可能性はゼロではないどころか、すでに実際に起きたことなのです。そのリスクは看過すべきではないでしょう。
日本人の対中観には世代間で大きな差があります。今まさに世代交代が進んでいて、概ね50代以下の人は私の話を聞いて「その通りだ」と反応する人が多い。一方それより上の世代はちょっと違う。中国と長年ビジネスをしてきた年配の方々の中には、「俺たちのレガシーを否定するのか」と感情的になる人もいます。経済交流を通じて日本が相手国にとって必要不可欠な国になる、というアプローチは、中国以外の多くの国では成功しました。ですから、それが根拠なき判断だったとは思わない。客観的事実として、中国経済の発展に日本企業が果たした役割は巨大です。ただ、その結果が今の中国なのですから、やはり「戦略的互恵関係という壮大な実験は失敗に終わった」と認めなければいけない時期に来ている。
失敗を失敗ではないと強弁して現状を維持するのは、次の世代に対して無責任だというのが私の考えです。オーバーホールには痛みが伴いますが、我々の世代で引き受けるべきものは引き受けて、次の世代が中国の経済制裁を心配しなくてもやっていける体制を作っていくのが大人の責任ではないでしょうか。
――それでも中国とうまく付き合うべきだと論じる人たちの中には、「トランプにハシゴを外される」可能性を指摘する声もあります。要は、日本の頭越しに米中がいきなり握手してしまう、1970年代のキッシンジャー訪中のような展開を心配しています。
そこが今まさに論点になっています。結論から申し上げると、その可能性はそれほど高くないでしょう。
たしかにトランプが行うディールには、その場限りの戦術的な方針転換が頻繁にあります。一方で、根底にあるアメリカの国家戦略がどこまで変わっているのか、常に見極めないといけない。トランプ個人の影響力が非常に大きいことは間違いないのですが、彼一人で国全体は動かせません。国家戦略の観点では、やはり国防総省と国務省のエリートがそれなりの基盤を作っています。例えば昨年末に発表されたアメリカのNSSを見ると、台湾問題に関しても従前と変わらないどころか、より踏み込んで「アメリカが第一列島線から引くことはない」と書かれている。台湾防衛についてトランプが曖昧なことを言う半面、エリートたちは「ちゃんと守る」と言っているわけです。