「北虜南倭」――こうした外患の消長には、明朝政府の態度もあずかって力があった。なかんづく騒擾の劇化には、当代の嘉靖帝の個性も作用していたようで、原則主義で強硬な態度を持したのも、帝の意向にそっていたらしい。「北虜南倭」に当局が手を焼いた実情をどこまで承知していたのか、いささか計り知れないところである。ともかくその在位中、政権は対外的な政策・姿勢を変えようとはしなかった。
安全瓣
その嘉靖帝が崩じて新帝が即位、西暦では1560年代後半から70年代初めの隆慶年間に入ると、ようやく明朝の政策方針に転換が見えてくる。「北虜南倭」の脅威を緩和させようとの動きが起こった。
まず南方沿海では、現在の厦門(アモイ)近辺にあった「倭寇」の根拠地・月港から、華人の海外渡航を認める。これが1567年、おそらく現場の試行錯誤のすえ、なし崩し的に決まった措置だった。少なくとも海禁を撤廃し、貿易を開放するというような大々的な方針転換ではない。……
