日本で生まれ育ち、北朝鮮へ「帰った」少女
子どもの頃、両親同士は家の中では朝鮮語で話していましたから、自分の親が日本人ではないということは知っていました。ただ、私は朝鮮半島のことなんて何一つ知りませんでしたし、最初から「川崎栄子」という名前で日本の学校に通っていました。川崎という苗字は、戦前に父が創氏改名で名乗り始めた苗字です。ですから私自身は、ごく普通の“日本の女の子”として育ったんですね。
そんな私が、高校からは朝鮮高校に進学することになりました。私はもともと勉強が好きで、中学では進学クラスにいました。当時はまだ、受験のための学習塾みたいなものはほとんどなくて、進学クラスの生徒には夏休みなどを利用して学校で補講が行われていました。社会科が得意だった私は、その補講で先生に代わって同級生たちに社会の授業をしていたんです。それくらい勉強が好きで、得意でもありました。補講の最後の日、先生が「川崎、ご苦労だったね。よくやってくれた」と言って、ご褒美に当時の最新版の世界地図帳を下さいました。すごく嬉しくて、後に北朝鮮へ渡る時もそれを持って行ったくらいです。
ただ、当時の在日コリアンは経済的に苦しい家庭がほとんどで、我が家にも高校に進学するようなお金はありませんでした。父は日雇い労働者でしたが、私が幼い頃から「一生懸命に勉強すれば、高校には行かせてやる」と約束してくれていたんです。ところが、いざ中学3年生になって公立高校に入学願書を出すと、あくる日に父に呼ばれてこう告げられます。「栄子、お前が出した願書は、父さんが学校へ行って取り返してきた。お前のことだから受験すれば合格するだろう。合格した後になって言うのは酷だと思うから、先に言うことにした。申し訳ないが、お前を高校に行かせてやる金銭的余裕はない。許してくれ」。そう言って父は私の前で号泣しました。……