国際

第12回 ゴルバチョフ 帝国の破壊者(後編)

2024年12月22日

かつてのソ連に君臨した6人の悪党たちの足跡から、ロシアという特異な共同体の正体を浮き彫りにする好評連載第12回。80年代初頭には経済成長率0%になっていたソ連を立て直すべく、ゴルバチョフは諸改革に着手する。しかしそれは、「帝国」の崩壊へ向けてパンドラの箱を開けることを意味した。

4. 期待と失望と

反アルコール・キャンペーン

 ゴルバチョフ政権が発足後すぐに着手した施策に、反アルコール・キャンペーンがあった。労働現場ばかりか党委員会でも飲酒は蔓延していたから、キャンペーンをやる根拠はあった。労働規律の向上や国民の健康改善という目標も間違いではなかった。だが、ゴルバチョフに準備を任されたリガチョフは、禁酒法の導入という行政的手段によって、一気に問題の解決を目指した。当時書記であったルイシコフは、飲酒は多面的な社会問題であるので性急な方法をとってはならないし、禁酒法のもとでは密造酒が広まり、原料である砂糖の消費量も増えて供給が追い付かなくなると指摘した。チーホノフ首相やアリエフ第一副首相も税収が減るのでアルコールの販売削減に反対した。だがゴルバチョフは、いかなる手段に頼ってでも国の道徳的雰囲気を救済すべきだというリガチョフの側に立った。
1985年5月7日採択の閣僚会議決定によって、蒸留酒は3億リットル、ワインは2億リットルずつ年間生産量を減らし、果実ワインは1988年以降生産を停止することになった。ビールは規制の対象から外れた。1985年後半にソ連全体で酒店の数は55%減り、23万8000から10万8000店舗になった。州によってはもっと激しく酒店が閉鎖され、アストラハン州では118から5になった。1986年後半からいたるところで砂糖や菓子やジュースが密造酒の原料に使われ出した。砂糖の販売量は1985年から87年までに18%増大し、配給券が導入された。同様の理由でオーデコロン、歯磨き粉、糊、靴用クリームの需要も増加した。密造酒に関わった咎で、1987年には50万人が何らかの責任を問われた(1985年の5倍)。

 ワイン生産も深刻な打撃を受けた(それ以前の時期に、より強い酒にかえてワインとビールの消費量を増やす政策がとられ、成果が出ていた)。1988年までにブドウ園の面積は1/3減った。発酵乳飲料ケフィール(ケフィア)がアルコールかどうかも、中央委員会内で真剣に議論された。

 1988年夏にアルコール販売をめぐる状況は極度に緊張した。わずかに残っている酒店に人々は殺到し、長い行列が生じた。9月8日、ルイシコフ首相の要請で政治局が問題をとりあげた。リガチョフは譲らず、怒号が飛び交う会議となったが、ルイシコフ側が多数となった。ゴルバチョフは多数派を支持するほかなかった。2日後に閣僚会議が開かれ、アルコール生産の再開が決まった1。反アルコール・キャンペーンは決してエピソード的な出来事ではなく、ゴルバチョフ政権がソ連の政治・経済に引き起こした混乱を集約的に示すものとなった。

新思考外交

 ゴルバチョフ政権は発足直後から、内政以上に外交において新路線を熱心に追求した。西側との緊張緩和をゴルバチョフが求めた大きな要因は経済にあった。1980年代初頭までにソ連の経済成長は0%になっていた。国内総生産の1/6あるいは1/4を軍事支出が占めていたことが、ソ連経済に重くのしかかっていたのである。ゴルバチョフは外務大臣をグロムイコからシェヴァルナゼに代えるとともに、それまで外交政策を管掌していた党中央委員会国際関係部から外務省に外交政策の重心を移した。資本主義陣営と社会主義陣営の対立に替えて、世界の一体性を強調する「新思考外交」が掲げられた。……

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