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4.0

人間・習近平の「思考様式」から体制が抱えるリスクを読む

2021年8月18日

忠誠と奉仕に生きた父への敬意は、どこか習近平が国民に求める姿勢に重なってくる。あえてエリートコースを外れて強い信念を築いた習近平だが、一方で中国の政策や行動が、現実よりも習近平の信念に左右されるリスクは見逃せない。これまでのキャリアで縁遠かった外交には、特にその影響が懸念される。

 ものごとは全体像をつかむことで正確な対応が可能となる。外交も同じことだ。相手の国、相手の組織、そして交渉相手を徹底的に分析し、相手の正確な全体像をつかむことが、ベストの結果をもたらす。全体像をつかまなければ、成功に導く戦略や戦術は生み出せない。中国とどう付き合うかを考える場合も同じことが当てはまる。だが中国の全体像をつかむことは簡単ではない。中国のすべての面を理解し、それらを有機的、立体的に再構成して、中国はこうであり、だからこうなると結論づけるのは至難の業なのだ。それほど中国は複雑であり、多面的であり、しかも急速に変化している。

 長い間、中国という国と社会を観察してきて、中国の全体像を知る近道は、中国共産党が自分の国の現状をどう理解し、中国をどこに持って行こうとしているかを理解するのが基本だと分かった。なぜなら共産党が一番多くの情報を持ち、それをよく分析し対策を立て、しかも結果を出す力を持っているからだ。改革開放の40有余年の成功は、そのことを示している。こちらが中国の問題に気づいたときには、共産党は大体、その対策まで講じている。 現在、その中国共産党に対し圧倒的影響を及ぼすようになったのが習近平総書記である。毛沢東や鄧小平の時代に近くなってきたということであり、トップの意向とそれを制約する要因分析が中国観察の鍵となる。日本の政治を永田町から観察すると、政治家の個人的な要素の与える影響の大きさが分かる。ましてやトップへの権力集中が強まっている中国だ。人間・習近平への一層の理解がますます重要とならざるを得ない。

「何の富も残さなかったが名声だけは残した」と語った父・習仲勳

 自分の生い立ちと、その後の経験から影響を受けない人はいない。習近平は、政治局委員まで務めた習仲勳と、母親である斉心の長男として1953年6月、北京で生まれた。父親の習仲勳は、陝西省など中国の西北地区で若くして頭角を現し、52年に中央に抜擢され、53年9月、国務院秘書長(日本の官房長官にあたる)に昇進した。59年4月には副総理を兼任し、国務院の日常業務の責任者となった。周恩来国務院総理の全幅の信任の証であり、中央においてしっかりとした地歩を築いたことの証でもあった。しかし62年、習仲勳が西北地区で仕えた劉志丹をめぐる政争に巻き込まれ、失脚した。そこに文化大革命が始まり、習仲勳の苦難の時代は、78年に広東省の指導者として復活するまで16年間続いた。

 80年、広東から中央に呼び戻され、81年、共産党の要である中央書記処の書記に就任した。82年には胡耀邦が党の総書記に就任すると同時に、政治局委員に選任され、中央書記処の日常業務の責任者となり、胡耀邦を全面的に支えた。しかし87年、胡耀邦は民主化問題や長老への対応をめぐり厳しい批判にさらされ、最後は鄧小平に切られた。習仲勳は胡耀邦批判の大合唱の中で、敢えて胡耀邦を弁護した。鄧小平との関係も緊張し、88年全国人民代表大会常務副委員長という閑職に追いやられた。……

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