近著『運命まかせ』(本誌連載をまとめた新潮新書)について、仏文学者の鹿島茂さんが書評をして下さった。そこでは今まで僕の発言に対して誰も触れなかったことにズバリ直球が投げられていました。どういうことかと言うと僕の創作と生き方の基盤になっている超自然的なものの考え方に言及されていたのです。
今まで沢山の方に僕の創作や発言を論じていただきましたが、大半の方は僕の神秘主義や超自然主義をなぜか避けて通ってこられました。このような僕の世界観に対する評者の偏見が影響しているように思います。この手のテーマに関心を抱くことの知的危機感がそうさせているのではないかと思います。
神秘主義や超自然主義というと、五感で知覚認識のできない、例えば超能力的なことや霊能的ないわゆる一般的にオカルトと呼ばれているいかがわしい現象として、知性と対立するもののようにとらえられていて、まともに論じる問題ではないと知性の領域から廃除されているように思えるのです。目に見えないもの、触れることのできないもの、つまりこの現象界に物質として存在しないものは全て非物質として無いも同然と決めつけられている結果ではないでしょうか。
ところが僕は幼年期から、このような事象を度々体感してきて、僕のものの考え方、生き方、創造の核として、見えるものと見えないものの両界を一体化させることが「現実」でもあったのです。そしてこの物質と非物質を統合したものの考え方がそのまま創作と生き方を決定しているのです。
従って大半の横尾論は非物質的、超自然主義、神秘主義の外輪を軽くなめる程度で極力こうしたテーマから距離を置くか、また無視することで語られてきたと思います。まともにこのような世界観に触れると、知性の範疇から、評者は廃除される可能性があります。そのため、なるべくこのような事象をオカルトという枠の中に閉じ込めてしまうことで自己擁護しているように思えたのです。
われわれの棲むこの現象界は確かに知性と感覚が支配する世界ですが、実はそこにもうひとつ、位置づけて考えられるのは霊性ではないかと思うのです。仏教的にいうと万物の奥にある実相とでも呼ぶべき領域ですが、この部分は五感では感知できないところで、現象界の外側へ排斥されているのです。
そんな僕の世界観を無視しないで鹿島さんは、「老いる自分」を「上方に漂う幽体の視点から眺めているという構造の本」と『運命まかせ』を指摘して下さっているのです。幽体というのは、人体を構成している見えない存在のひとつであるアストラル体(もうひとつエーテル体もある)のことで、死に瀕した人が、自己の肉体を上方から俯瞰した経験を臨死体験として語る場合がありますが、肉体から離脱した意識のことです。
鹿島さんは僕の創造や生き方の核としてこのような視点から、ものを見ていると語っておられます。こうした表現で僕について語られた人に三島由紀夫さんがひとりおられます。三島さんは僕の作品の出所は心霊的なツールを通って表現されていると語っておられますが、ご自分のことでもあると思います。
鹿島さんはさらに、僕の視点を「幽体離脱した幽体をもう一つ上から眺めている『超幽体』のような視点」と評して下さっています。「超幽体」のような視点というのは死の領域ということになります。従ってここでは死んだつもりで、この現世を俯瞰するということです。現世にいながら現世の視線でもうひとつ上方から俯瞰することを鹿島さんは幽体離脱と語っておられるのです。
厳密な肉体感覚ではこの見方はできないと思います。幽体離脱はいわゆる肉体感覚という五感から自立した時に初めて感知できる感覚で、それをさらに上方から眺めているということは、肉体感覚から完全に離脱した、いわゆるダンテの「神曲」の煉獄のような、または仏教の中庸、或いは幽界ともいえる場所で、霊界に入る一歩手前の世界で生死の中間地帯にいることにもなります。スウェーデンボルグはこの両界を体感しています。
ここは時間を超越した世界なので時間は存在しません。われわれの現象界は時間の制約があるので、中々超越した世界は体感できません。北斎が90歳の時、あと10年与えられれば宇宙の神秘が描かれるのにと言ったのは、つまり死後の世界の実相界が描けると言ったのではないでしょうか。
鹿島さんがおっしゃる幽体離脱した幽体をもう一つ上から眺めている「超幽体」の視点を北斎は手に入れようとしたのです。この視点は死の視点です。生きながらの死の体験とはもしかしたら死者の視点かも知れない。つまり霊界人ということになるのかも知れませんね。それならば僕は死者であるということになり、僕が最も望む存在なのかも知れません。