「東芝」という社名にはもはや食傷した読者が大半だろう。2015年以降、次々、噴出する粉飾決算など不祥事、主力事業の切り売り、ガバナンスの劣化をみれば既に日本を代表する名門企業としては幕を閉じたことは明らかだ。世間の東芝への関心は、外国ファンドに命綱を握られ、零落していく“貴種”の行く末を見届けることでしかない。東芝の没落については『東芝の悲劇』(大鹿靖明著)、『東芝 原子力敗戦』(大西康之著)はじめ優れた書籍が数冊出ており、多くが「経営者の失敗」に原因を求め、議論は尽くされた感がある。ここでは、日米経済関係という別の角度から東芝を改めて論じてみたい。国家と産業の狭間に沈んだ名門の悲劇である。
「恐怖」を植えつけた米政府
1987年3月に明らかになった東芝機械(現芝浦機械)によるCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)違反事件は当初、大きく発展する印象は薄かった。東芝の冠がついていても、所詮は子会社の不正にすぎないと思われたからだ。また当時、他にも日本企業のCOCOM違反事件は少なからずあった。外為法違反容疑での警視庁による東芝機械本社の捜索と、通商産業省(現・経済産業省)の規制強化で落着すると、多くの経済人はみていた。
だが、米議会では親会社の東芝の責任を追及する声が高まり、翌5月には東芝製品の米国への輸入を禁止する法案が提出される事態へ急展開した。東芝は社内にCOCOM違反を防止するための対策会議を設置するなど米国へ恭順の姿勢を示そうとし、ワシントンや地方で地元選出議員に対するロビイングを積極化した。だが、7月初、米上院では東芝製品の輸入を禁止できる条項を含んだ包括貿易法案が可決され、東芝の佐波正一会長、渡里杉一郎社長のトップ2人が辞任した。事件は2カ月で予期せぬほどの深刻な状況に発展してしまった。その後、東芝は3兆円(当時の為替レート)の罰金を科される瀬戸際にも追い込まれた。
当時から米国の東芝への対応は日米貿易摩擦の文脈でも理解されていたが、より深掘りすれば、半導体を主戦場とする日米先端技術戦争における日本側の重要なプレーヤーである東芝に狙いを定めたバッシングだったとも言えるだろう。87年当時、東芝はNEC、日立製作所と半導体売上げの世界トップを競う存在で、テキサス・インスツルメンツ、インテル、モトローラなど米国勢を圧倒しつつあったからだ。……