<span>AIに「大博打」が打てるか――「非合理」と「非効率」の人生に価値がある</span>
独自の切り口で「AI」を語る神田伯山氏 (C)新潮社

AIに「大博打」が打てるか――「非合理」と「非効率」の人生に価値がある

2026年5月23日

AIによって、人間の在り方そのものまでが問われつつある時代だ。影響が及ぶのは「芸」の領域も例外ではなかろう。しかしほんの10年前まで“絶滅危惧職”と称されていた講談の世界においては、「全くもって脅威ではない」と、そして「人生に豊かさをもたらすのは、『不完全な人間』の『非効率極まりない行為』だ」と、神田伯山は言い切る。

人間は「不完全」と「過程」を愛している

 ついこの前、日経新聞さんが主催されているショートショートの文学賞「星新一賞」が話題になっていましたね。受賞作が「AIの書いた作品」ばかりになって、審査員から「もう引き受けたくない」という声が挙がったといいます。

 僕自身は、全部がAI作品になってこそ星新一賞らしいよな、なんて思ったりするものですが、一方でこの審査員の方の気持ちもわかるんですよ。

 だって皆さん、AIが書いたものってわかった瞬間、冷めるでしょう。

「結論」が大事なのもたしかです。しかし我々が本当に愛しているのは、書くという工程の中でどれだけ努力したか、どれだけ汗をかいたか、どれだけ悩んでひねり出したかといった、「不完全な人間」が全力で向き合っている「過程」なんじゃないかって、僕は思うんです。

 ゴッホの「ひまわり」も、作品自体が素晴らしいことは言うまでもありませんが、自分の耳を切り落としたり、弟のテオに支援してもらうほど極貧な生活をしていたり、そういった彼自身のストーリーも含めて愛されてきたわけですよね。

 若手の熱海富士を立ち合いの瞬間に躱(かわ)し、はたき込みで優勝した貴景勝が世間からバッシングを受けてしまったのも、単なる勝ち負けではなく、「怪我をおしてでも、格下の若手の技を正面から受け止めた上で勝つ」という“美学”を見たかったというファン心理があるからでしょう。

 思っている以上に我々は、「結論」より「過程」を愛しているんじゃないかと。それも「不完全な人間が辿ってきた過程」を。

 そういう意味で、僕の生きる講談という世界にとって、AIは特に脅威だとは思わないんですよ。

 講談に対して、一言一句台本を覚えた上で、それを正確にアウトプットするものだというイメージをお持ちの方も多いのですが、それは誤解で、その日その日のお客さんの反応に合わせて言い方や表現などをチューニングしたりと、出力は毎回全然違うものになっています。つまりお客さんとの調和がミソになるライブ芸。

 そしてそれは、毎回違う間があり、どこかつっかえたり間違えたりする可能性がある「不完全な人間」がやるからこそ面白いものであって、AIとはあまりにも相性が悪すぎる。

 仮に台本や僕の話し方などを読み込ませた「AI伯山」を高座に上げたとしても、そこに面白みはないでしょう。なぜなら「完璧」だから。逆に完璧ではない“トチリモード”のAIができたとしても、それは計算されたトチリだから鼻持ちならなくなる。

 不完全な人間がやるから、もっというと、それまでに重ねた稽古や、人間としてのストーリーなどの「過程」が見えるからこそ、講談は面白いんです。

「AIにはできない選択」の先に

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独自の切り口で「AI」を語る神田伯山氏 (C)新潮社

 AIに尋ねれば何でも“最適解”を教えてくれる時代です。それゆえに、「AIが示す矢印」に流されやすい面もあると思っています。

 デートに行く店や、上司と行く店を選ぶとき、「とりあえず食べログの評価が3.5以上のお店にすれば安心だ」などと考えがちですけど、それは自分の意思よりも数字を重視していることに他なりませんよね。

 そうやって「選択をゆだねる」シーンが、AIによって増えているように思います。だって何を聞いても合理的な最適解を瞬時に導いてくれるわけですから、そりゃ人間からしたら楽ですよ。

 ただそれは、人間としての一番面白い部分を放棄してしまっている気がするんですよね。

 連れていく人のことを考えてお店を選んだり、小雨の日に傘を持っていくかどうかで悩んだり、そういう一つひとつの細かい選択の積み重ねこそが人生なのに、その過程を楽しまずになんでもAIに任せてしまうのは、ちょっともったいないなって僕は思ってしまいます。

 AIに頼るということは、どこか流されて生きることと隣り合わせなんじゃないですかね。活用すべきことは活用するにしても、考えることをやめて、一番面白い部分を放棄してしまうことは、ちょっと違うんじゃないかなって。

 そもそも、20年ほど前に僕が講談の世界に足を踏み入れたことも、AIなら到底導かないであろう選択でした。

 当時、東京都内の大学に通っていましたが、就職氷河期から抜けて少しずつ就職率も良くなり始めていた頃だったので、周りはみんな就職の話ばかりしていました。

 そんな中、誰でも知っている落語ではなく、客席も閑散としていた講談の世界に飛び込むなんて、どう考えても合理的な判断とはいえない。

 でも自分なりに考えに考え抜いた結果、僕はこの道に進みたいと思った。

 それだけ講談がものすごく面白いものだと感じたと同時に、その世界があまりにも知られていなくて、自分が何とかしたいと思ったんです。めちゃくちゃ美味しいのに、食べログの評価が1.4しかないお店があるとするじゃないですか。そういう過小評価されている「僕だけが知ってる良いお店」を、正当に評価してもらえるようにしたいと思った。

 でもそれは、レートの悪い大博打ですよ。だって「食べログ1.4」に人生をかけるんですから。それこそAI的ではない、ひらめきや直感、そして勘違いや若気の至りとか、全部ひっくるめての僕の決断です。だけどそうやってAIとは対極の選択をとったからこそ、今こうして講談に没頭して生きられることに幸せを感じています。

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神田伯山氏 (C)新潮社

 とはいえ私の入門した頃とは、だいぶこの世界も変わってきました。今では講談の門をたたくことも、もしかしたらAIがおすすめしてくれるようになっているかもしれません。

 たとえば全部で1000人近くいる落語家の中で現役の人間国宝は五街道雲助師匠だけですが、講談師は100人規模でしかないのに、神田松鯉という人間国宝がいる。1000分の1に対して、こちらは100分の1。2020年に亡くなられた一龍斎貞水先生も含めれば、50分の1ですよ。もちろん、人間国宝の方々はもうとんでもない存在であることは言うまでもないんですけど、あくまでも「人間国宝になれる確率論」で落語と比較すれば、講談の方が合理的ということになる。おかげさまで講談自体の人気も少しずつ高まってきていますから、単純に需要と供給の意味でも、100人規模の講談師の競争率は以前ほどではなくなっているという見方もできる。

 ひょっとしたら、講談の世界に生きるのは悪い選択肢ではないと、AIが勧めてくれるようになっているかもしれません。

 そしてもしそこに僕が一役買えているのだとしたら、それはAIの判断を塗り替えたともいえる。それができた理由は、自分が20年ほど前に「AIにはできない選択をしたから」に他ならないと、僕は思うんです。

人生をひっくり返した弟子の文章

 先日、はじめて女性の弟子をとりました。26歳で入門、豊松という名前をつけたところです。

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