中東紛争で最も深刻な影響を受けるアジア圏
昨年2月にADB(アジア開発銀行)総裁に就任してから、まずADB本部(マニラ)があるフィリピンのマルコス大統領に面会し、最初の出張ではカンボジアのマネット首相や中国の李強首相、イタリアのメローニ首相、直近ではスリランカのディサナヤカ大統領やドイツのシュタインマイヤー大統領など、約40人の各国首脳に会ってきました。彼らやビジネスリーダー達に共通するのは、非常に強い危機感と覚悟を持って、国際秩序の溶解といってもよい大変な状況に挑んでおられるということです。
とにかくショッキングなことが立て続けに起こりました。私が赴任する前も新型コロナやロシアによるウクライナ侵攻があり、直近では中東紛争も勃発しています。中東紛争は、ある意味、理不尽で、アジアは何も悪いことをしていないのに、最も深刻な影響を受けています。
その理由は簡単で、アジアはペルシャ湾岸、ホルムズ海峡経由の石油・ガス、石油製品輸入シェアが圧倒的に高い。日本は原油の95%、ASEANでも60%を中東に依存しています。
深刻なのは、停戦になってもすぐにすべてが元に戻るわけではないということです。多くの生産拠点や関連施設が破壊され、例えばカタールのLNGは供給体制が復旧するまでに数年かかると言われています。
さらに厳しいことに、今のエネルギー価格や運送価格の上昇は、これから、すべての財やサービスに波及し得るわけです。肥料価格の高騰は既に食料市場に影響を与え始めていますし、化学製品や薬品などの値上がりが取りざたされています。
こうした価格転嫁がさらに波及していく中、インフレが長期に持続したり、悪化するリスクへの対応や備えが必要です。
中東紛争のような外的なサプライショックによるスタグフレーション(景気後退とインフレが同時に起こる現象)のリスクは、金融マーケットの人々が特に警戒しています。輸入するものの値段が上がると、特に日本のように主要物資の輸入比率が高い国ではインフレに直結しますし、日本は輸入のドル建て決済の比率が高いので、円安が更に物価上昇を加速させます。
急激な円安でインフレが悪化したり高止まりすると、一般国民の生活や企業の経営が、大変苦しくなります。貧困層や中小企業は特に酷い影響を受けがちです。また、物価上昇は節約志向を招いて消費を冷やし、不確実な状況だと様子見で設備投資も控えめになり、景気に悪影響をもたらします。
加えて、インフレになると、多くの場合、政策金利を上げてこれを抑えこまざるをえません。すると、預金金利収入は増えるものの、借入コスト高によって投資が抑えられ、あるいは住宅ローン負担が増えて消費が減るリスクがあります。ただ、早めに政策金利を上げてインフレ期待上昇の芽を摘めば、高インフレ、高金利の不幸な世界を回避できることもよく知られています。
したがって、手遅れ(ビハインド・ザ・カーブ)になる前に、過度のインフレを抑止する金融政策が推奨されます。そうしないと長期金利が急騰するリスクも観察されています。日本の場合は価格転嫁のスピードがずっと速まっていることも重要です。不幸な事態を未然に防止する健全な政策を展開すべきだというのが市場関係者を含め多くの人の共通認識でしょう。
金融・資本市場も、中東紛争で大変な影響を受けています。これもまた、アジアへの影響が一番大きい。紛争が長期化し、リスクセンチメント(市場心理)が悪化して、いわゆるリスクオフ(リスク回避)の状態に傾くと、原油の価格が上がり、株価が下がり、そしてアジアの地域通貨が減価してしまう。直近ではインド、インドネシア、フィリピンの通貨が史上最安値のような状態になっています。日本も円安が止まりません。
アジアが抱える構造的な脆弱性
為替市場では、地政学的リスクに加え、ドル安でも円安になる要因として、縮小トレンドがみえない大きな内外(実質)金利差、特に最近は、財政持続可能性や国債需給にマクロ系ヘッジファンドなど世界の市場参加者が注目しており、市場の信認の確保が肝要です。
こういった状況を総合すると、中東紛争以前に比べて、かなり警戒すべき事態を想定せざるを得ない。
7月8日夜、ADBが公表した最新試算では、アジアの途上国は去年5・5%成長していたのが、今年は4・9%で、0・6ポイント下振れすると予測しています。インフレはもっと深刻で、去年は3%だったのが、今年の予測では4・3%まで上昇する見込みです。しかも、下方リスクの方が支配的であり、中東紛争の再激化とエネルギー市場、AI関連等の株価調整、関税紛争再発と貿易不確実性、肥料価格高騰やエルニーニョによる食料難、中国不動産市場の悪化といった可能性に注視が必要です。
こういう状況なので、ADBはとにかく迅速かつ大規模な対応を進めています。
特に私がこだわったのはスピードです。1995年1月17日に私の郷里神戸で起きた阪神・淡路大震災、あるいは主計官として対応した2011年3月11日の東日本大震災(福島第一原発事故を含む)など多くの災害で、“1日早く動けば多くの人を救える”ということを身に染みて感じました。
金融面では、世界銀行に勤務していた08年にリーマンショックが起こり、貿易金融を維持するとともに、世界の銀行をウォールストリートの破綻波及から守りぬくというミッションを遂行しました。これも一刻を争う仕事でした。
そういった経験を踏まえて十分に準備をしていたこともあり、ADBは3月24日、国際機関として最初に中東紛争向けの支援パッケージを発表できました。すでに40億ドルほどの資金供給を実施しています。そのうち30億ドルは政府向けで、15カ国の政府から緊急の財政支援の要請を受けて迅速に提供を進めています。残りの10億ドルは民間向けで、エネルギーや食料、薬品、肥料などの輸入を途切れさせないための貿易金融支援を展開しています。