世宗はただちに親征を決意した。北漢の側も、君主の劉崇みずから出陣していたからである。しかし群臣は、対処迎撃は当然ながら、親征には反対だった。先帝の柩を蓋ったばかりで、北漢・契丹の連合軍とまともにわたりあっても、とても勝ち目はない、とみたからである。
高平の戦い
しょせん戦場経験のない青年天子、鋭鋒は避けて自重すべし。さきに内藤湖南・宮崎市定という二大碩学の解釈で紹介した馮道老人の諫止は、嘲笑であれ親心であれ、意見そのものが特殊だったわけではない。誰もが世宗を「子供扱い」して、思い感じていたことだった。
しかしどうやら世宗は、天性の武人である。武威を樹てるには、時に死を賭して運を購わねばならぬことを身体で知っていた。万乗の自分を見くびるのは、外敵だけではなく、並みいる朝臣も同じ、これではしめしがつかない。いよいよ闘志を燃やし、反対を押し切って、親征を敢行した。
世宗は諸軍をひきいて北上、954年4月24日、高平で北漢軍と遭遇する。いまも山西省の同名の地に、後周軍は左・右・中央の三軍に分かれて布陣した。戦いが始まると、まもなく崩れたのは右軍である。指揮する騎兵隊長の樊愛能と歩兵隊長の何徽が、騎兵とともに遁走、歩兵は武器を捨てて敵軍に降伏した。……