しかし仁宗の治世は、そんな「慶暦」が代表する太平の裏側で、容易ならざる事態が進行していた。潜在する積弊は、一朝有事のさいに露顕する。西北辺境における西夏の興起であった。
西夏の興起と危機の到来
西夏はチベット系のタングート族が甘粛・オルドス地方に建てた国である。宋の太宗の時期から自立の動きを強め、仁宗の代にいたって離反独立、西暦1038年、族長の李元昊が皇帝と称して、国号を「大夏」とした。
形式・体面にうるさい宋は驚愕して、交際・交易を断絶して圧力を加えたけれども、李元昊は屈しない。ついに交戦状態に入って、宋軍は敗北を重ねる一方、西夏の側でも物資の欠乏に困ってきたので、澶淵の盟に倣い、和睦が成立した。時に1044年、慶暦の和議といい、西夏は宋に臣礼をとって、歳幣の供与を受けるとりきめである。……