カルチャー

永楽帝――甥殺しの簒奪者(上)

2021年11月13日


<span>永楽帝――甥殺しの簒奪者(上)</span>
クビライ(左)が樹ち立てた大元国のあと、帝国を再生して明朝を興したのは、永楽帝の父・朱元璋(太祖洪武帝=右)だった

帝王の創業とは、けだし天授によるため、成祖永楽帝が天下を得たのも、人力では禦げなかったものである。斉泰・黄子澄・方孝孺・練子寧たちは、主君を支える忠誠にあふれながらも、勝利を制する方策に乏しかった。しかし残忍な刑具の数々を目にしても、なお虐刑を甘受した。そこでほとばしった忠憤は、百世の後も凛乎として生きている。国事につとめなかったあげく、一死を以て謝罪するような輩とは同日の談ではない。尋常の成功・失敗で論じるわけにはいかないのである。(『明史』巻一四一)

 ちょうど15世紀の開幕する1402年に終わった「靖難の変」を描いた文章である。明朝第二代皇帝の建文帝を叔父の永楽帝が倒して、帝位・政権を簒奪した事件であった。

 明朝の皇帝なんて、現代の日本人は、ほとんど誰も知るまい。建文帝も然りである。そのなかでも永楽帝といえば、まだしも聞いたことのある、字面に見覚えのある人物ではないだろうか。

 少しでもなじみがあるとすれば、おそらくその治世のシンボルだった「永楽銭」=永楽通宝が、日本に入ってきて、たとえば名だたる戦国武将が旗印に使ったためであろう。だから「永楽」といっても、永楽帝本人あるいはその事蹟とはあまり関わってこない。現在は京都に、その永楽銭をロゴに使った「永楽屋」という綿布商の老舗がある。そのお店の人に永楽帝のことを訊いても、まさか教えてくれるとは思えない。……

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