多くの識者が指摘するように日米戦争は、日本と米国の対中政策のぶつかり合いが引き起こした。米国は一貫して中国の門戸開放、機会均等を要求し続けた。1931年の満州事変以来の日本の対中行動は、この米国の対中基本方針と正面からぶつかり、関係は悪化していった。
37年、盧溝橋事件を契機に日中の本格的な戦争が始まり、39年7月、米国は日米通商航海条約の破棄を予告した。重要資源の多くを米国からの輸入に頼っていた日本にとり事態は著しく深刻であった。同年9月、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発し、ドイツは破竹の勢いで欧州を席巻した。翌40年1月、日米通商航海条約は失効し、米国は石油や鉄などの禁輸措置を強め、日本は追い込まれた。同年9月、日本は資源を求めて北部仏印に進駐し、日独伊三国同盟を結んだ。41年7月、日本はさらに南部仏印に進駐し、これをきっかけに米国は対日全面禁輸に踏み切った。日本は同年12月、真珠湾を攻撃し対米戦争の道を選んだ。
この日本の「失敗の本質」については多くのことが語られている。はっきりしていることは、日本が対中政策を変えていれば、日米戦争は回避されただろうということだ。日米の本格的な対立点は中国問題だけだったからだ。この一連の経験は、局部にこだわるのではなく、大局的、戦略的な判断がいかに大事であるかを示すとともに、中国問題は、日米関係において常に要となる問題であることを示している。
独立回復にリンクした日華平和条約
第二次世界大戦後、米英は共産主義イデオロギーを背景としたソ連の勢力圏の拡大を憂慮した。1945年の総選挙に敗れ英国首相の座を退いていたウィンストン・チャーチル(51年に再び首相)は、早くも46年3月、米国で「鉄のカーテン」演説を行い反共連合の必要性を強調した。49年4月、NATO(北大西洋条約機構)が成立し、東西冷戦が始まった。……