エッセイのテーマに困っていると編集者のTさんに泣きついたら、よっしゃ、だったらこんなテーマでは如何でしょうと、次のような情報を示してくれました。
人間の生物学的寿命、すなわち人間が自然のまま生きた場合の寿命は、遺伝子解析の結果、38歳だというのです。遺伝子設計図にはそれくらいで寿命を迎えるように設定されているらしいというのです。
本当かな? これじゃ、文明社会以前の原始人じゃないですか、といいたくなります。現在は医療や食生活の向上によって、日本人の平均寿命が80代になり近い将来には平均寿命が110歳、長生きの人では130歳ぐらいになるかもしれないというのです。
となると従来の人生設計が根本から変ってしまうのではないでしょうか。当然一夫一婦制も変るかも知れません。少子化社会に代って、子供がどんどん増えるかも知れません。死ねない社会の到来です。
人間がもっと短命だった時代には、短か過ぎるとでも考えていたのですかね。つい200年ほど前の江戸時代の寿命は30代〜40代だったはずです。武士の寿命は30代位だったのではないでしょうか。寿命が短か過ぎるという不平不満はあったのでしょうか。
実は今朝の新聞の死亡記事欄では47歳の漫画家と56歳の音楽家の死去が告げられていましたが、現代の寿命からすれば、あまりにも早い死ではないかと思います。江戸時代ならまあまあ、長生きと思われたでしょうが、現代ではこの年齢での死はあまりにも早過ぎ、本人は無念な思いをされたかと思います。しかし与えられた寿命の中で、この人達は生を充実されて亡くなったはずです。何も長く生きたことが立派であるとは言えないように思います。
だから、与えられた寿命の中で、納得できて死ねる人もいれば、長寿を与えられたにもかかわらず、現世に対する執着を残こしてたとえ100歳まで生きても、寿命が短かかったと無念の想いのまま亡くなる人もいるはずです。
と考えると寿命の長短は問題ないと判断したらどうでしょうか。その中味が問題ということになるかも知れません。もし、今僕が90歳になる年に死んだと仮定したら、どう想うでしょうか。ちょっと考えてみたいと思います。
人生として未解決な問題はいくつもありますが、その問題を解決するには、あと何年あってもたりません。それどころか生きた時間のつけとして、次から次へと問題は山積していくでしょうね。人間の願望にはキリがないように思います。だから、人間には輪廻転生というシステムがあって、次の生の中で、未完の問題を解決するためのチャンスが与えられているのです。と解釈したらどうでしょうか。
今後、この地球がいつまで存続するのか、その地上に住む人類の寿命はどうなるのか、とそんな未来のことを考えても仕方がありません。考えられるのは結局、今日一日のことだけです。明日は明日の風が吹くので明日のことなども考えるのは止めましょう、といいたいところですが、人間の果てしない欲望は結局、生に対する執着なんですね。
もし生に対する執着が人間の中からなくなると、意外に長生きするのかも知れませんよ。一秒でも長生きしたい気持が結局人間の一番厄介な問題ではないでしょうか。何のために、何故生きるかということを考えるのが哲学です。すると、人間は哲学をするために生きてきたということになりませんか。
でもあんまり考え過ぎるのはよくないように思います。なるべく考えないように生きることができれば一番の幸せへの近道となるでしょう。考えるから悩みが増えるのです。猫を見ていると、あんまり考えているようには見えません。与えられた環境の中でボンヤリ生きているように思います。そんな猫の生き方を人間が少しでもできれば、かなり楽に生きられるでしょう。猫は眠っているか、何か食べているか、遊んでいるかのどれかです。猫は人間に比べるとうんと短命ですが、自らの死を察知すると、自然に家を出て、死出の旅に立ちます。実に潔い生き方をしますね。
105歳の長寿を全うされた医師の日野原重明先生は死を目前にして、死の後にやってくるだろうと思われる次の世界に対する願望に不思議な期待感を抱き、死ぬのは怖いけれどと言いながら、何か希望を求められています。このような先生の話を聞いていると、人間には「終り」というのがないように思えてきます。
そこで冒頭のTさんのところに戻って考えますと、「Tさん、人間の寿命のことは、天にまかせるしか、解決する道はないように思いますが、今回はこんなエッセイで如何でしょうか?」。