画面に映らない情報を役者に伝えるべきか
――この映画を見ていると、画面に映っていないいろんな物語を想像したくなりました。誠はこれまでどういうふうに写真館を経営してきたんだろう、雄太は普段どういう生活をしている人なんだろう、とか。監督のなかでは、それぞれの登場人物の背景について、具体的に考えていたんでしょうか?
坂西:佑さんには渡していませんが、雄太の経歴や家族関係について書いたメモは事前に作っていました。ただそういう細部を映画の中で見せる必要はないと思ったし、むしろ見せないことで観客がより能動的になるだろうなと期待していました。九州にやってきた雄太が電話で仕事相手らしき人と会話していたり、昼間はパソコンに向かっていたりする。それを見た観客が「この人はどういう仕事をしているんだろう」と想像を膨らませる、それで十分だなと思ったので。
柄本:映画って結局、画面に映っている以上でも以下でもないですからね。役者さんには、少しでも情報を共有しておいたほうが安心して演じられる人もいるでしょうが、僕は画面に映らないことは知らないでいたほうがいいというタイプ。でも監督にとっては、一度文字にしておく作業が必要だった、ってことですよね。
坂西:そうですね。そうやって書いたことが実際の映画にどう活きたのかはわからないけど、でもどこかには活きているんだと思います。
心が震え思わぬところで落涙してしまう体験を求めて
――『メモリィズ』は、写真や映像によって現実を記録すること、そしてその記憶の共有のありかたを描いた映画ですので、ぜひお二人にも映画の記憶についておうかがいしたいと思います。坂西監督にとって、自分の大きな糧になったと思える映画はありますか?
坂西 大学時代に、恵比寿映像祭でマライケ・ファンヴァルメルダムというオランダの映像作家の作品を見て大きな影響を受けました。「カップル」「イン・ザ・ディスタンス」と題した2つの映像作品で、一方には、老年のカップルが庭のベンチに座っている様子が映され、もう一方は、結露で曇った古い一軒家の窓が映されたあと、年配の女性らしき手が結露を拭くと窓の向こうにベンチに座った二人が見える、というものでした。
どちらも何気ない場面を映した30秒ほどの短い映像ですが、座っている二人は年配の夫婦だろうか、もしかしたら夫が亡くなったあと妻が過去を回想した場面なのかとか、映された瞬間以上に想像させる余地がたくさんあり、こうやって観客のなかに物語を想起させられるのが映像の力なんだな、と気付かされました。
もうひとつは、ホセ・ルイス・ゲリン監督の『シルビアのいる街で』(2007)。主人公の若い男がある街を再訪し、その地でかつて出会った女性の面影をひたすら追いかけるだけの映画ですが、街がすごく豊かに映されていて、ふだんの日常を見つめる視点が大きく変わりました。
柄本 坂西さんが大学時代に撮った短編もいくつか見せてもらいましたが、ひたすら犬探しをするだけの短編『夜のこと』、あれはおもいっきり『シルビアのいる街で』ですよね。
坂西 まさにそうですね(笑)。この二人の作品からはものすごく影響を受けていて、『メモリィズ』にも反映されているなと思います。
――柄本さんは俳優の中でも大の映画好きとして有名ですが、特に名画座で古い映画を見るのが大好きだとうかがっています。旧作を見直すことの喜びはどういうところにあるんでしょうか?
柄本 映画を見て心が震え、思わぬところで落涙してしまう体験ってやっぱり清々しいんですよね。だから同じ映画が上映しているとまた見に行きたくなっちゃうんです。「あの感じ、もう一回喰らいにいくぜ」って。
でも新作/旧作の区別って実はそんなにないよな、という気もします。僕はジャン・ルノワール監督の『フレンチ・カンカン』(1954)が大好きでもう何度も見ていますけど、これから見るという人にとっては初めて出会う映画なわけで、それは新作を見る体験と変わらない。見るタイミングが違うだけで、どんな映画体験もすべては現在進行形としてあるんじゃないでしょうか。
一方で、映画を見れば見るほどしんどくもなるんです。あれもこれも全部過去の映画ですでにやられているんだと見せつけられて、これから新しくできることなんて何もないんじゃないかと思えてきて。でもそのしんどさを体験することが大事なんです。やっぱり暗い中じゃないと光は見えないですから。光の中にある黒い点より、暗い中にある白く光る点のほうがよく見えるように、絶望の中に希望を見出すのが僕にとっての映画を見る体験なのかなと思います。
自分で映画を撮影する時も16ミリフィルムで?
――『メモリィズ』は16ミリフィルムで撮影されていますが、フィルムで撮ることへの強い思いがあったのでしょうか?
坂西 今回、劇中で使われる写真の撮影とスチール撮影を担当してくれた江森(康之)さんが、以前、「フィルムとデジタルで同じ風景を撮ったとき、どっちを長く見ていられるかといえば、絶対にフィルムの方だと思う」と言っていたのが印象に残っていて、自分が長編映画を撮るときは絶対にフィルムで撮りたいなと思いました。それとこの映画では、雄太たちがスマートフォンで撮影した映像や、誠が写真館で撮った写真、中判フィルムで撮った映像など、いろんな映像素材が登場する。だったら映画本体は16ミリフィルムで撮りたいと、撮影監督の鎌刈さんとも当初から話していました。
――俳優として、フィルムで撮られる体験は、やはりデジタルでの撮影とはまた違う体験でしたか?
柄本 全然違う体験でしたね。フィルムの場合、テイクが増えるとそれだけお金もかかるし、何回も撮影はできない。そのぶん一回一回の撮影に気合いが入る感覚がありました。
――柄本さんは監督としても活動されていますが、ご自分でもフィルムで撮りたいという思いはありますか?
柄本 何を撮りたいかによりますね。たとえば三宅(唱)さんは『ケイコ 目を澄ませて』(2022)を16ミリフィルムで撮りましたけど、それは俳優がボクサーを演じることの身体的な負担、という前提がまずあったわけですよね。ボクシングの試合の場面を何度も演じると、俳優の身体には大きな負担がかかる。だから三宅監督は、この一回で撮るんだ、という集中力を高めるためにフィルムでの撮影を選んだと聞いています。自分が撮るときも、そういう正当な理由があればフィルムを選びたいですが、あえてそこにこだわろうとは考えていないです。
――2022年には柄本さんが監督された短編集『ippo』が公開されましたが、次の企画はやはり長編映画でしょうか?
柄本 具体的に言える予定はないんですが、『ippo』の製作や公開につきあってくれたスタッフやキャストの方への恩返しも兼ねて、早急に長編に取り掛からないとな、とは思っています。虎視眈々と機会を伺っているところ、という感じでしょうか。
――坂西さんは、初長編を撮り終えて、今のお気持ちはいかがですか。
坂西 こうして取材を受けていても、いまだに「監督」と呼ばれることにピンときていなくて。まずは「監督」として初めての映画の公開を無事に見届けて、それから次の作品のことをゆっくり考えていきたいと思います。