保守の本丸としての神社
宗教法人神社本庁(田中恆清〈たなかつねきよ〉総長)が5月、明治神宮会館で神社本庁設立80周年記念大会を開いた。式典には秋篠宮ご夫妻が出席。政界からも、安倍晋三元首相から神道政治連盟国会議員懇談会(神政連議員懇)の会長を引き継いだ中曽根弘文元外相、木原稔内閣官房長官らが訪れ、「保守の本丸」たる神社神道界の大きな存在感を改めて強く印象づけた。
神道政治連盟は神社本庁と一体ともいえる団体で、高市早苗現首相はこれまでに神政連議員懇の副会長を務め、安倍氏に続いて国政のトップに主要メンバーが就いたこととなる。
「日本に誇りと自信を取り戻す」という神政連の目的は、安倍氏や高市氏の唱える政治信条と重なるのは言うまでもない。HPにある主張の多くは、皇位継承問題からジェンダー問題まで多岐にわたるが、保守系言論雑誌の見出しをイメージしてもらえば大差ないだろう。現在所属する国会議員数は270超。
神社本庁や神政連が構成する神社神道界には我が世の春が到来している――かといえば、必ずしもそうではない。実際には内憂外患を抱えており、解消困難な状況になっているとも見える。
およそ一般人にとって、土地にある神社は日ごろから何かにつけて手を合わせ、願をかける身近な存在。パワースポット、心の平穏を得る場といった捉え方をする人も多い。しかし現実の神社神道界はそのように平和な場とは限らない。政治的な強い使命感を持つ一大勢力であり、近年は殺人事件その他数多のトラブルが報じられている。
その問題の根源は、終戦直後の神社神道界隈の路線対立にまで遡る。
連載の第2回は巨大宗教法人の政治力の源泉と成り立ち、直面する課題に焦点をあてたい。
大会2部の式典。秋篠宮文仁さまは祝辞でこう述べられた。
「神社本庁は、先の大戦の後、国家と神社の分離を目的とした神道指令が発せられたことから、当時の民間の神社関係3団体が相寄り、神宮を始め全国津々浦々に鎮まる約8万社を包括する宗教団体として1946年、昭和21年に設立されました。爾来、祭祀の振興と神社の興隆ならびに日本の伝統と文化を守り伝えることに努められ、このたび設立80年の佳き日を迎えられました」(神社新報6月1日付)
式典には中曽根、木原両氏のほか、全国神社総代会会長の小林健・日商会頭(三菱商事相談役)、宗教行政をあずかる松本洋平・文科相、城内実・議員懇事務局長、山谷えり子・同副幹事長、打田文博・神政連会長、九条道成・明治神宮宮司、元海将の大塚海夫・靖国神社宮司らが出席した。
秋篠宮さまのお話にあるように、神社本庁は皇典講究所(國學院大の母体)、大日本神祇会(神職の全国組織)、神宮奉斎会(伊勢神宮の崇敬団体)が中心になって1946年に設立された。当初は國學院大学の一角にあり、後に明治神宮隣接地に移転した。職員約60人。全国の神社の指導、支援を業務とし、総裁(皇族出身者)を推しいただき、統理(皇族・華族出身者ら)の下、総長が実務をとりしきる体制を敷いている。
その動向が注目されるのは、戦後の保守運動の大半を牽引してきたからにほかならない。近年の「保守勢力」の台頭を見れば、その運動は結実しつつあるようにも見える。
ただ、ここ10年に限って言うと、神社関係者には耳の痛い話が少なくなかった。「正式な総長」の不在を生んだ深刻な内紛に加え、鶴岡八幡宮、金刀比羅宮といった有名神社の本庁離脱もあった。さらには富岡八幡宮では姉弟間の宮司人事をめぐる殺害事件まで起き、それまで一般人にはうかがい知れなかった、神々に奉仕する人々の世界の葛藤が垣間見えたことは驚きの連続だった。
富岡八幡宮殺人事件
2017年12月7日。筆者はその日、東京郊外の学校で授業をし、同校関係者と飲んで帰宅。翌8日朝、スマホを見ると数多の着信、留守録、メール。飛び起き、社会部に電話し、告げられるまま東京・深川の八幡宮に向かった。
事件は7日午後8時半前、富岡八幡宮境内地で発生。会合を終え帰宅した宮司(姉)を、物かげで待ち伏せていた元宮司(弟)が日本刀で殺害し、弟の妻が車の運転手に斬りつけた。その後、弟は妻を刺殺し、自らも命を絶ったのである。
事件の伏線は神社の宮司人事をめぐる家族関係にあった。女性問題や金銭トラブルを抱えていることを理由に弟が宮司を解かれた2001年以降、先代宮司にあたる父が宮司に復帰したものの10年に体調を崩し、姉が宮司代務者に就任。八幡宮と氏子らはそろって姉を正式な宮司とするよう神社本庁に働きかけてきたが発令には至らず、結果、八幡宮は事件の3か月前、17年9月に神社本庁の傘下から抜け、単立宗教法人となる道を選んだ。
姉が宮司に就任したことで、自らの宮司復帰を熱望していた弟側の望みは絶たれたに等しく、積年の恨みが暴発したと見られている。
筆者は昨年春、多磨霊園を訪ねた際に富岡家の墓が同所にあると知り、翌月、一人で改めてお参りし、墓前に手を合わせた。姉の名が刻まれた墓誌をさかのぼると、神社本庁第8代事務総長(今の総長)を務め、日本会議の源流の一つである「日本を守る会」設立に奔走した祖父、富岡盛彦氏の名前があった。
富岡盛彦氏はGHQの意向により国家神道が解体された後、神社界の代表として参院文部委員会で、宗教法人法とは別に「神社法」の制定を求める意見陳述をした人物である。「神社は日本固有のもので、他宗教とは異なる特性をもつ。よって、その特性を生かすために、なるべく神社法といったものの制定が望ましい」と訴えた。
戦前の神社神道は国家の宗祀とされ、宗教を超えた国民道徳の淵源に位置するとされる公的な存在だった。行政組織のあり方にしても他の宗教と違っていた。内務省社寺局が内務省神社局(神社神道)と内務省宗教局(仏教、教派神道、キリスト教など)とに分かれたのは1900年。その後、宗教局が文部省に移管される一方で、神社局は40年に内務省の外局である神祇院(じんぎいん)に昇格した。このように戦前の宗教団体法で神社は除外されて特別扱いを受けていたというのに、戦後の宗教法人令(宗教法人法)の下では、仏教やキリスト教、教派神道、他の宗教と同列にされることへの不満が神社神道側には渦巻いていたのである。富岡氏はこうした神社神道側の不満を代弁したのだ。
弟にとっても、祖父の存在は誇らしいものだったのだろう。彼が知人らに送った遺書にもその名があった。「私の祖父富岡盛彦は神社本庁の事務総長まで務めた人間でした」「私は、いつか神社庁の庁長になって、富岡八幡宮と富岡家の栄光を取り戻そうと、死に物狂いでした」とあっただけに、凶行は返す返す残念に思えた。
GHQによる国家神道の廃止
このように良くも悪くも話題にこと欠かない神社本庁ではあるが、まずは、連載の本旨に従ってその成り立ちから話そう。
やはりここも秋篠宮さまのお話を引くのがいい。祝辞にあった神道指令とは何か、だ。
正式名称を「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という。戦後の宗教行政に大きな影響をおよぼすことになった、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の覚書を指す。
指令を一面で報じた朝日新聞(1945年12月17日付)は、「国教の分離を指令 神道より軍国主義払拭」の見出しの下、次のように報じた。司令部は「神道の国家よりの分離、神道教義より軍国主義的、超国家主義的思想の抹殺、学校よりの神道教育の排除を命令した」とし、「皇室の神道の宗主としての地位ならびに従来のわが国体観念に根本的改革を要求するものであり、同時に従来国家の手で行われていた神道祭典も、今後は皇室の家族的行事として行われることになり、神道は日本宗教界の一宗派としてのみ存在を容認されることになった」と結んでいる。
占領初期のGHQは矢継ぎ早に宗教制度改革を打ち出している。神道指令の約2週間後には宗教法人令(神社は当初含まれず)が公布され、神社界も新事態に対応していくことになった。その時期、神道指導者の間で激論となったのが、神社教案と神社連盟案だった。現代の有名神社離脱にも関連する意見の相違なので敢えてここで記したい。
前者は戦前の国家機関、神祇院を模した中央集権的な組織案。後者は戦後神社界のイデオローグ、葦津珍彦(あしづうずひこ)氏らが主唱した、指揮系統が緩やかな連盟形式のイメージだった。
葦津氏らの案は、職業的神職の官僚主義を一掃したいという狙いに加えて、GHQの強権発動を恐れての深謀遠慮があった。つまり、ピラミッド式の神社教とした場合、命令一下、マッカーサー教にだってなりかねない。維持・管理は各地の神社に任せ、統括団体の指図で全体が動かされない連盟型のヨコの組織にすることが、神社生き残りにとっては肝心だと訴えた。
両案は長老を介して落とし所を見つけ、発足したのが神社本庁だった。葦津氏は将来、宮司の任免は氏子ら地元の推薦を基本とし、神社本庁側の役割は認証程度の形式的なものになるのがいいと考えていたが、そうはならなかった。占領軍が日本を去ると、神社本庁側がもつ宮司らの人事権は傘下の神社を操縦する切り札になり、対等なヨコの関係と思っている神社側と、上命下服のタテの組織だと考えている神社本庁側とでたびたび意見が対立することになるのである。これが今日もなお大きな課題として残っている(後述)。
少々先走ったことにも触れてしまったが、そうして神社本庁は神祇院が廃止された翌日の1946年2月3日、正式に発足した。それに先立つ設立総会には全国から約200人の神職が参集。宗教の上に位置し、国民道徳を司る公的な存在とされた戦前の神社神道から日本最大規模の宗教法人へ。神社本庁が産声をあげた。
政治への接近
占領下においてはGHQの意向を無視することはできなかったが、1952年、サンフランシスコ講和条約が発効。日本の独立回復を機に神社界は大きく動きだそうとしていた。何につけキリスト教を優遇し、神社神道を隅に追いやったGHQが去る。神州恢復の時がきた――。
神社界が最初に手をつけたのが紀元節復活運動だった。神武天皇が即位したとされる2月11日を祝うこの祝日もまたGHQにより廃止されていた(1948年)。この日を復活させることを彼らは強く願った。そのためにも自前の議員を国会に送りこむことが必要だと考えた。しかし、それはうまくいかなかった。
國學院大教授の藤本頼生氏は「この当時神社界が選挙という政治行動に全く不慣れであった証左でもある。これ以降は、神社界からの現任神職の独自推薦候補を立てられないという現状を生み出す一因ともなった」(『戦後神道界の群像』)と指摘している。
いまでこそ皇位継承、ジェンダー、家族、歴史教育、暦、外交防衛、領土、外国人との共生などをめぐる諸問題で影響力を及ぼすに至った神社界だが、主張が広く国民に受け入れられ始めたのは、保守回帰が進んだ1960年代後半以降だというのが筆者の見立てだ。その嚆矢(こうし)が先述の紀元節復活であり、以下に取りあげる神政連の発足だった。
神政連は1969年に誕生した。建国記念の日と名を変えた紀元節復活の実現(1967年)までに祝日法制定から19年もの月日を費やしたことへの反省と、もう一つは、戦後の繁栄は明治の施策の賜物であり、今こそ日本精神の昂揚を図るべきだ、というナショナリズムの高まりが神社界を動かした。自主憲法制定国民会議の発足や、靖国法案が追い風になったことは言うまでもない。
神政連の綱領にはこうある。
一、神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す。
一、神意を奉じて経済繁栄、社会公共福祉の発展をはかり、安国の建設を期す。
一、日本国固有の文化伝統を護持し、海外文化との交流を盛んにし、雄渾なる日本文化の創造的発展につとめ、もって健全なる国民教育の確立を期す。
一、世界列国との友好親善を深めると共に、時代の弊風を一洗し、自主独立の民族意識の昂揚を期す。
一、建国の精神を以て無秩序なる社会的混乱の克服を期す。
結成大会後の記者会見で、上杉一枝初代会長は「(神社)本庁と不離一体となり、政治的なものを一つひとつ解決」と抱負を語ったのだが、神職の多くが神政連加入に反対する地域もあった。東京はその一つだった。
『東京都神社庁史』は「個々の小規模神社では、神職の政治活動が神社の運営を阻害する場合も多い。つまり、多数の自治団体や氏子、町民の代表で組織する神社総代役員会の構成員は、それぞれ支持政党も違えば好みも異にする」と記す。加入の是非を管内の神職多数に尋ねたところ、圧倒的に反対が多く、しばらく静観することになったという。ただし、神政連の理念には共感し、1970年に政治色のない「日本の伝統を守る会」を立ち上げる。同会は10年後、神政連東京都本部に改組された。そんな経緯を記すのも、地域の「神主さん」にとって、政治の案配が難儀なことは今も変わらないからだ。
一方、神政連議員懇は1970年、18人で発足した。代表世話人は青木一男・元大東亜相。A級戦犯容疑者として拘束された後に復権し、参院議員に当選。反共を旗印にした自民党右派集団「素心会」の中心メンバーで、靖国神社総代として、A級戦犯合祀の実現を訴え続けたことで知られる。発足直後、「少数精鋭」を謳った小さな塊が、今や270人超の巨大議連として保守の真ん中に陣取っていることは隔世の感が否めないと言っていい。
政治団体ではないという欺瞞
かくなる歴史をつないで、神政連は拡大を続けてきた。同時に見逃せないのは母体である神社本庁内の中枢、総長ポストを左右するまでになったことだろう。
神政連会長(1992年就任)を経て初めて神社本庁総長(98年)となった人物に工藤伊豆氏(高山稲荷神社宮司、青森)がいる。歴代総長が熱田神宮や鶴岡八幡宮、石清水八幡宮といった大きな神社の出身者であるのを考えれば、工藤氏の就任は異例だった。そこで語られるのが神政連の力だ。
その頃、議員懇を仕切っていたのは参院自民党議員会長を務めた村上正邦氏で、神政連事務局をあずかっていたのが、冒頭の神社本庁設立80周年記念大会にも顔を連ねていた神社本庁の能吏、打田文博氏(現・神政連会長)だった。村上氏の弁を借りれば、工藤氏、次の矢田部正巳氏、今の田中恆清氏と3代続く総長はいずれも打田氏が担ぎ上げたという。田中・打田体制と呼ばれる所以である。
打田氏の経歴にもふれておこう。1953年静岡県生まれ。東海大学卒業後、國學院大神道学専攻科に進み、神奈川・寒川神社に奉職。80年に神社本庁に入った。神政連事務局長を兼ねる渉外部長としてキャリアを重ね、2000年、静岡・小国神社宮司に転出。16年に神政連会長に就いた。時の神政連議員懇会長は安倍晋三首相である。安倍氏死去を受け、神社本庁と神政連は往時の勢いを失ったかに見えたが、今また、議員懇主要メンバーの高市早苗氏が首相になった。
それほどの団体だからこそ、透明性が求められるのは当然だ。ここで筆者はそもそも論を質したい。
「神政連は政治団体ではないのか。なぜ任意団体なのか」
神政連は自治省届の政治団体として発足した。ところが、いつしか任意団体となり、外目には資金の流れが把握できないブラックボックスと化している現状がある。
同窓会程度ならまだしも、神政連ほどの存在がそれでいいはずがない。
任意団体になったのは打田事務局長時代の1995年だった。政治団体の解散届は同年7月28日提出。以後、情報開示を必要としない任意団体として潜行していった。
神政連に理由を尋ねたことがあった。文書で回答があった。
「本連盟の活動の目的は国民運動推進団体としての活動であり、政治団体として、特定の政治家や政党に対して政治献金をおこなうなどの活動はしていません。そのため平成7年に政治団体としての解散届を出し、国民運動を展開しています」
国民運動とは便利な言葉だ。憲法改正運動は政治そのものだろう。しかも、議員懇副幹事長を務める有村治子氏の資金管理団体の収支報告書には、政治資金パーティー収入として「2019年6月13日 神道政治連盟 50万円」の記載がある。同副幹事長の山谷氏でも同様の記載が確認できる。特定の政治家や政党に対して政治献金を行わないという建前はどこへ行ったのか。議員秘書がうっかり記載して「露見」したのだろうか。
政治資金規正法は政治団体をこう定義づけている。
《政治上の主義もしくは施策を推進し、支持し、またはこれに反対することを本来の目的とする団体。特定の公職の候補者を推薦し、支持し、またはこれに反対することを本来の目的とする団体――》
所管の総務省に尋ねると担当者は「政治資金規正法上、本省に実態を調査する権限はない」。それゆえ分からないというのである。ザル法ここに極まれりだ。
神社新報に30年前の組織内部の議論が載っていた。1994年、規正法の改正で団体献金の受け皿が政党か、政治家の資金管理団体かに限られたことから、従来どおり神社から協賛金を集められなくなるため対応を迫られた、とあった。
そこで四つの組織生き残り策が検討された。(1)既成政党の支部になる(2)特定政治家の資金管理団体になる(3)神社の協賛金を個人寄付にする(4)規正法の拘束を受けない団体になる。結果、(4)を選択し、政治団体の解散を届けたという。
「事務局から『これからは国民運動としてやっていく』と説明があった。ところが、実際には従来の政治活動と何も変わらなかった」と神政連関係者は証言する。ならば政治団体に戻り、「カネ」の出入りを公表すべきだろう。
神政連の綱領の一には、「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」とある。神社神道の根本は浄明正直である。何事もそうであってほしいものだ。
敗戦直後の対立軸は消えていない
さて、伏線回収に努めながら本稿を着地させようと思う。
「選任問題沈静化へ」。神社界の動向を伝えるそんな大見出しの記事が宗教専門紙「中外日報」に載ったのは今年の5月定例評議員会(=神社本庁の最高意思決定機関)が終わった数日後、5月27日だった。前文にはこうある。
「鷹司尚武(たかつかさなおたけ)統理と田中恆清総長の『対立』が注目されていた『総長選任問題』は沈静化の様相で、(中略)神社本庁設立80周年記念大会が挙行されたことに感謝し、第63回神宮式年遷宮に向けて全国的な奉賛活動への協力を呼び掛けた」
先に少し触れたが、統理とは神社本庁における幹部職の名称で、皇族・華族出身者が務める。記事の「対立」とは、神社本庁で2022年、執行部の運営に疑問を呈す鷹司統理が指名した総長と、役員会が決めた総長(田中氏)が並び立つ事態が発生したことを指す。
混乱は最高裁で田中氏が正式な総長と認められた後もすぐには収まらず、くすぶり続けていた。ところが、評議員会の直前、神社新報に統理と総長の「特別対談」が組まれ、関係者の間では歩み寄りの観測が広がっていた。
ただし、大所帯である。執行部の求心力が一朝一夕に回復するとも思えない。組織の成り立ちの項で説明した神社教案(タテの上意下達型)と神社連盟案(ヨコの緩い連携型)の対立は今回の混乱と無縁に見えて、その実、70、80年をへて伏流水のように噴き出したような印象をうけるのである。
以前、神社本庁総務部長が宇佐神宮(大分)の宮司として降り立った際、世襲社家の女性神職を宮司に推す元責任役員らとの間で対立があり、取材したことがあった。元責任役員が「神社本庁は緩やかな連帯から始まったはずなのに、いまや全国の神社や神職を支配下におき、多額の負担金を奪うシステムへと変質してしまった。神官を一括管理した戦時中の神祇院、国家神道への先祖返りを夢見ているのではないか」と話したのを筆者は鮮明に覚えている。結局、宇佐神宮では世襲は認められず、中央(神社本庁)の意向が通ったことになる。タテの上位下達の勝利だ。
この時、筆者は渦中の宇佐神宮の新宮司側はどう考えているのかが気になった。宮司は元神社本庁幹部職員ゆえ、「神社本庁と加盟各社の関係はタテ組織かヨコ組織か」などの質問を投げたところ、代理人弁護士から戻ってきた宮司の回答にはこう書かれていた。
「各神社はそれぞれの意思決定により、神社本庁と包括関係をむすんでいます。包括関係にある以上は包括団体の規律に従うことになります」
つまり、タテ組織だということか。
全国の神職の間で、神社本庁に加盟するメリット、デメリットが真剣に論じられるようになったきっかけは、昭和末期の日光東照宮の離脱だった。
米軍占領下の「神社冬の時代」では、傘下の神社にとって神社本庁は本当に頼りになった。やがてその心配はなくなり、経済力もあって自由な神社運営を望む日光東照宮のような神社にとって、いちいち神社本庁に伺いをたてることは煩わしいものに変わった。
その流れは平成になっても続き、気多大社(石川)、富岡八幡宮、金刀比羅宮(香川)、鶴岡八幡宮(神奈川)などが離脱していったのだが、神社本庁にとっては忌むべきことだ。「神社本庁は国家的な存在だった戦前期の理念が組織の基本にあり、神社のまとまりを重視する。離脱が広がれば統制が利かなくなり、神社からの負担金も減る。当たり前だが離脱は好ましい動きではないと考える」(井上順孝・日本宗教学会元会長)というわけだ。憲法改正が現実味を帯びてきた今、草の根保守の最前線である全国の神社が期待通りに機能しない可能性だってある。
それゆえ引き留める。だが、離脱の手続きを定める宗教法人法26条は被包括法人の意思を尊重すべきとし、同78条は包括法人が離脱を妨害してはいけないとも記している。離脱側の弁護を数多く担当してきたベテランの弁護士、佐藤歳二氏はこう話していた。「離脱の自由の根拠は憲法の信教の自由です。そこに気づいていないのがちょっと情けない」
神社本庁において総長(事務総長)を最も長く務めたのは、傑物と言われた篠田康雄氏(熱田神宮宮司)の3期9年だった。現在の田中氏は2010年に就任以来6期目の任にあり、篠田氏の記録を大きく更新中だ。その間あまたの係争事案が発生し、本人の意思とは関係なしに、辞めるにやめられなかった事情があるのかもしれない。
原稿を書くにあたって、神社関連の資料をめくっていると、平成前期に神社本庁統理を務めた細川護貞氏を見つけ、氏の子息である細川護熙元首相が言った「権不十年」を思い出した。「権力というものは知らず知らず腐りやすいものだ」という含意の言葉は、護熙氏が2期8年で熊本県知事を辞める際に残した。父細川氏も1989年からの10年で統理を辞している。身の処し方とはつくづく難しいものだ。