世界の潮流から置いてけぼりの日本農業
「全く根拠のない上げ幅ですよ」
肥料業界の事情通は、憤懣やる方ない様子でこう言った。怒りの矛先は、JA全農が公表した価格改定である。流通の過半を握るプライスリーダーだけに、高騰に乗じて暴利を貪っている……かと思いきや、そうではない。事情通が訴えるのは「上げ幅が低すぎる」ということだった。
農家が肥料の高騰に耐え切れずに減産する。こうしたニュースは北米や南米の穀倉地帯はもちろん、東南アジアや欧州などからも伝わってくる。ところが、日本はまだそこまでの危機に直面していない。
背景には、日本独自の商習慣と、偏った流通構造がある。
全農は肥料の流通量の実に55%を握り、価格改定は6月と11月の年2回のみ。作物の成長に大きく関係する化学肥料の3要素は、窒素、リン酸、カリで、6月からの改定で最大の懸案は、窒素肥料の「尿素」だった。日本は国内消費量のほぼ全量を輸入に依存している。その国際相場はイラン戦争前のほぼ倍に跳ね上がっているのに、今回の値上げは15%程度(輸入・大粒)に抑えられた。
「農林水産省の意向もあるでしょうし、JAグループとしては、農家のために上げたくないというのも、あるでしょう。仮にメーカーとの取引価格が上がっても、農家に売る末端価格は上げないはず。差額は自分たちで補填するということ」(事情通)
一見、農家思いの措置にみえる。だが、「商系」と呼ばれるJAグループを通さない民間の業者(卸売業者や小売店など)からすれば、「営業妨害」(同)ということになる。調達コストを反映した価格でないとやっていけない商系の業者からすると、過半のシェアを持つ巨人に安値を付けられては、商売あがったりだというのだ。
値上げの先送りは、危機の先延ばしに過ぎない。
肥料価格が上がったアメリカ大陸やオーストラリアでは、農家が穀物類の作付けを減らす経営判断をしている。かたや日本は肥料の上げ幅が小さいこともあって、「じゃぶじゃぶ」に余っているコメが昨年より増産する見込みだ。増産で米価が下がると、JAグループは販売の手数料収入が減ってしまう。それを回避すべく、秋に向けて高値を維持するよう、政治圧力を強めていくことになる。
コスト上昇分を肥料価格に十分に反映しない――。これは、JAグループの企業努力にみえて、実は肥料業界にひずみをもたらす。さらに米価維持のための補助金や価格支持政策が検討されることになって、国民に費用負担を強いることになる。
日本の農業と食卓はいま、人知れず時限爆弾を抱えてしまっている。
工業用途に食料が食われる
肥料の危機は2008年や2022年にも起きた。
08年危機の主因は原油価格の高騰と需要の急拡大。原油価格の高騰が窒素系を中心とした肥料の製造と運送を直撃し、また、アメリカやブラジルにおけるバイオエタノール生産や中国やインドにおける食糧需要の高まりが作物の増産とその生育に必要な肥料の争奪戦につながった。中国で四川大地震により肥料の原料生産が滞ったことも、危機を一層深刻にした。
22年危機の主因のひとつはウクライナ戦争だ。有力な肥料輸出国であるロシアからの供給が制限・停止されたことにより、国際的な需給が逼迫した。ロシアだけでなく、世界の肥料生産国で食糧安全保障の意識が高まり、肥料の輸出が制限されたことも大きい。さらに、尿素など窒素肥料の製造に必要な天然ガス価格の高騰も追い打ちをかけた。
今回の肥料危機を、これまでと違うものにしている要因がある。EV(電気自動車)用電池との原料争奪戦だ。