社会

クリント・イーストウッドは真実を描いていたのか 零戦パイロットが見た「硫黄島」地獄の戦場

2026年5月1日


<span>クリント・イーストウッドは真実を描いていたのか 零戦パイロットが見た「硫黄島」地獄の戦場</span>
航空機から見た硫黄島の要衝「摺鉢山」

 クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」(2006年)のヒットにより、若い世代にもよく知られている「硫黄島の戦い」。1945年2月16日から1カ月余のあいだ、東京から南に約1200キロメートルの位置にある硫黄島で繰り広げられたこの戦いでは、約6万人の米兵を迎撃した2万余名の守備隊が玉砕した。その約半年前、1944年6月末から7月にかけての空戦でも、硫黄島から出撃した零戦隊が壊滅している。ここで制空海権を失ったことにより、硫黄島は艦砲と爆撃機の攻撃にさらされることになる。この空戦を辛くも生き延びた零戦パイロットたちが見た地獄の戦場とは――。

※本稿は「週刊新潮」2007年1月4日号に掲載された特集を元に再構成したものです。また、年齢や肩書は当時のものです。

洋上に不時着して九死に一生

 平成18(2006)年12月1日、元零戦パイロットの藤田怡与蔵(いよぞう)氏が肺がんで亡くなった。享年89。

 藤田氏は、昭和13(1938)年に海軍兵学校卒(第66期)。昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃に零戦搭乗員として出撃以来、ミッドウェー海戦、南方各地の戦場を転戦。昭和19年6月末に硫黄島に赴き、敵機動部隊の戦闘機との空戦に参加した数少ない生き残りの一人だった。

 戦後、日本航空のパイロットとなり、天皇皇后両陛下(編集部註:現在の上皇上皇后両陛下)が皇太子夫妻の時代にメキシコを訪問した際、搭乗機の機長を務めたこともある。……

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