“復興のシンボル”として「箱もの」が急ピッチで造られてきた。その国主導のスピード感は、皮肉にも住民から話し合いの時間と忍耐を奪っていった。そして、ようやく探り当てた新たな原点――。
区長を引き受けてほしいと話があったのは、義人さんが帰還して翌18年。2人暮らしの妻久子さんが避難中に脳出血で倒れ、その後も妻を支えながらの開墾生活となり、「しばらく公務優先とはいかない。できれば勘弁してほしい」と辞退した。が、2年しか猶予を得られずに選ばれ、重い役職とともに地域の現実に関わることになった。
「国依存」への村政変質
自身は43歳から副区長を経験した。20代で農協畜産部会の三役に推され、「若いやつにやらせよう」と人を育てる気概が地域にあったという。「復興を担うのは若い世代だ。彼らが発言し、意見を表明する場を、年長者は準備しなくてはならない」と考えてきた。ところが最近の総会では、役員になってほしい一世代下の出席者から「移住先の町内会でも『役員をやって』と言われている。比曽と両方はできない」と断られた。
行政区の役員にもなり手がおらず、総会では、話し合いや提案、意見の持ち寄りではなく、「いきなり無記名の投票になった。決まったら文句を言うな、と。いまの立場がどんなであれ、いま、比曽のために『自分ができること』を話してほしいのに」。……